ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

イメージの本

昨日見たジャン=リュック・ゴダールの最新作『イメージの本』(2018) は 5つのパートで構成されているが、その内の列車の主題から構成された部分と作品の最後の部分の末尾には、マックス・オフュルス監督の『快楽』(Le Plaisir, 1952) が引用されている。見終わってからのことだが、『イメージの本』のあまたの引用でも特に重要であるように思えた『快楽』のことをあれこれ想起していたら、この映画を学生時代はじめて友人とイメージフォーラムの映写室へある朝、見に行ったとき、斜め前の座席に山田宏一さんが座っておられて、いきなりこちらへクルリと振り向いて、椅子の背にだらりと片腕を伸ばし「オフュルスが好きなんですか?」とニコニコしながら声をかけてくださったことが突然思い出された。

『快楽』は、ギュイ・ド・モーパッサンの短編小説をもとにした 3 つのパートからなるオムニバス映画で、第 1 話はモーパッサンの 1890 年の作品『仮面』(Le Masque)、第 2 話は、 1881 年の『メゾン・テリエ』(La Maison Tellier)、 第 3 話が 1888 年の『モデル』(Le Modèle) にもとづいている。第 2 話「メゾン・テリエ」の田舎のシーンは、ジャン・ルノワールの作品で、やはりモーパッサンの『野あそび』(Une partie de campagne, 1881) を原作にもっている『ピクニック』 (1936) と比較されることがあるが、『ピクニック』の撮影をしたクロード・ルノワールは、ボリス・カウフマンとともに『仮面』と『メゾン・テリエ』の撮影をしているクリスチャン・マトラに師事したことがある。第 2 話で左顎につけボクロ ——ジャック・ドゥミーの『ローラ』(1961) でのアヌーク・エーメのつけボクロは右顎である——があるローザを演じているダニエル・ダリューは 100 歳の誕生日を迎えられた 2017 年にお亡くなりになった。第 2 話の『メゾン・テリエ』にはとりわけ心を惹かれる。ジャン・ギャバンがテリエ館の女たちを馬車で送って駅にとまっている汽車に乗せる。汽車の窓のところに胸もとに野でつんだ花を抱えた半身を見せているローザの両頬に別れのキスをすると、汽車は動き始める。ジャンがその汽車を追いかけて走っていくところを移動撮影でキャメラが捉える。汽車が速力をあげはじめると、ギャバンは立ち止まり、花が差してある黒い帽子をとって、右手でそれを振りながら、「さようなら」と大声でいう。汽車はやがて画面の奥に消えていき、その白い蒸気だけが残る。日の光を受けて真っ白に輝く蒸気は、ゆっくりと薄くなってやがて消えていく。その次のショットでは白い馬がひく今はがらんとなった馬車に乗っているジャンが映されている。その馬車は女たちが摘んで馬車に残していった野の花だけが揺れている。もちろん、オフュルスは、ここでジャンの顔の寂しげな顔をクロースアップでみせたりはしない。余計な心理ショットを入れなくても、あのだんだん消えていく白い煙と花だけが残った空の馬車をキャメラがひいてじっと見つめるだけで充分だからである。

日本ではまだ DVD が発売されていないジェニファー・ジョーンズ主演の 『ルビイ』(Ruby Gentry, 1952) は断片しか見たことがない。この作品も『イメージの本』に引用されているが、全編を見たいと思った。映画で使われた音楽ばかりは聴けば誰でも耳にしたことがある有名なものである。


キング・ヴィダー監督の映画ばかりを一時期ずっと見ていたことがあったが、そのとき日本語版の DVD だと手に入れることができない作品がかなりの数にのぼることに失望したことも思い出した。

『イメージの本』では、新しく撮影されたシーンはほとんどなく、映画についてだけでも数える気も失せる夥しい過去の作品 (ゴダール自身の作品も含み百数十以上) が断片として引用されている。いまに始まったことではもちろんないが、それらがオフュルス的な流れるような処理とは対極的な

デジタル的な後処理によって断片はさらに脱色され階調が飛ばされたり、ノイズがのせられたり、着色されたり色が変更されたり、焦点がぼかされたり、アスペクト比が変えられたり、文字がオーバーラップされたりする。それはまるでその断片に視線を注いでいるものが抱く、自分は作品を見ているはずだというまやかしの主体の優位を逐一、虚構に過ぎないと糾弾し、その断片にノスタルジーをもつことを断固として拒絶するかのようだ 。それは、ジャン=リュック・ゴダールの映画を「見る」場合の通過儀礼のようなものであろう —— 人は眠りに陥ることなく本当に「見る」ということをいったいどうしたら始められるのか?ただし、通過儀礼を見る主体にとり行う意地悪で頑固な爺さんの役割にはどうしても徹しきれず、意外と優しい面がある「愛の人」ゴダールはときどき、甘酸っぱいようなサービス・ショットを入れてくれることもある。たとえばある程度、過去の映画を見ている人ならば誰でも知っているだろう『大砂塵』(1954) や『無防備都市』(1945) や 『戦火のかなた』(1946) や『ドイツ零年』(1948) や 『神の道化師、フランチェスコ』(1950) や『めまい』(1958) や『汚名』(1946) や『上海特急』(1931) や『キートン将軍 (キートンの大列車追跡)』(1927) や『若き日のリンカーン』(1939) といった、ある程度共有された作品が提示される場合がそうである。

ゴダールはヌーヴェル・ヴァーグの理念をより徹底化し、新たに撮影などしなくても、過去の作品を考古学的に発掘し、それらの断片をノスタルジーを禁じるようにダイレクトに加工編集すれば、新たな映画=未来は作れるといっているかのようだ。それは「見える化」などとは全く逆の試みである。それは「見た」と勘違いしているものを解体し、デフォルメを施して希薄化させ見えなくすることである。夥しい引用をすればするほど、逆に見えてくることは、いかに映画の歴史における作品が膨大に存在するかという事実である。ゴダールほど長い間、映画を見ていても、一人の人間がその全貌を把握することなど到底不可能である。たとえこれから新作が一本も未来永劫、封切られないとしても、不可能なのである。それは「見る」ことの不可能性のひとつである。すでに多くが消失してしまったサイレント映画、溝口健二 『雨月物語』(1953) を除くとゴダールがほとんど引用していないといえる膨大な日本映画を含むアジアの映画たち。

ベルナール・エイゼンシッツがゴダールに宛てた手紙には、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール 18 日』の冒頭にある 有名な

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。

を引用して、マルクスがリメイクを発明したと語っているが、このこと自体は、たとえば、それ自体反復である明治維新をなぞるかのように大正維新、昭和維新、平成維新が存在し、天皇に国家としてのアイデンティティを集中させ、それを利用して「改革」を進めようとするものたちが必ず国家主義的なものの呪縛に陥っていく「みじめな笑劇」を考えれば、別に目新しい発見とは言えないような気もする。

ゴダールが映画の最後で引用する『快楽』の第 1 話で、踊り狂う仮面の男が疲れはて床に倒れるシーンは、そのリメイクが現代だというのだろうか。それとも咳込みながら嗄れた声で真摯に希望を語るゴダール自身の彼一流の戯画表現なのであろうか。

※ 注: ゴダールの『快楽』第 1 話の引用は、『雨月物語』(モーパッサンの短編 『勲章』も加えて脚色されているこの作品で、水戸光子が演じる阿濱が武士の集団に強姦される同一場面が引用されている) や『日曜日の人々』(1930) といった作品と同じように、ゴダールの 20 世紀最後の作品である 15 分ほどの短編 『二十一世紀の起源』(2000) の最後のところにもある。また、当時カイエ編集長だったアンドレ・バザンに却下されたものの、ゴダールがカイエのために一番最初に書いた批評原稿は『快楽』についてであったという。ゴダールはそれが余程悔しかったのか、その後、「カイエは今でもまだ、公開当時にこの映画について語らなかったことを恥じている」と書いている。


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