雑記 (28)

今月号の「新潮」に蓮實重彦の『「ポスト」をめぐって — 「後期印象派」から「ポスト・トゥルース」まで』を読んだが、「発展が遅れている国の大学ほど、若い年齢の学生たちに初年度から専門教育を受けたがらせ、the general education を軽視しがちだとして、その反対の喜ばしい例としてバングラデッシュのような貧しい国の大学がようやくにして Liberal Arts Education を採用し始めたことを (ロゾフスキー氏が) 祝福しておられた」とある。「バングラデッシュ」は「バングラデシュ」が正しい表記なんだけどな。一番印象が深かったのは、話の本題の部分ではなく、「2021年といえば、あの愚かな東京オリンピックもすでに終わり、日本経済はかつてない不況のまっただ中であえいでおりましょう。」という部分。やっぱり、普通はそう見るよなと思った。いくら過去の歴史が大事だと言っても、前回の時とは状況が違いすぎるので、安易な比較に首をかしげていたところだった。


さて、いくつかの 群  G_i (i \in \mathbb{Z})準同型写像の列、

\cdots\,\overset{f_{i-2}}{ \longrightarrow}G_{i-1}\overset{f_{i-1}}{\longrightarrow}G_i \overset{f_{i}}{\longrightarrow}G_{i+1} \overset{f_{i+1}}{\longrightarrow}\,\cdots

が、どの  i \in \mathbb{Z} についても、 \mathrm{Im}\, f_{i-1}  = \mathrm{Ker}\, f_{i} を満たすとき(つまり、 f_i \circ f_{i-1}=0)、その準同型列を「完全系列 (exact sequence) 」という。特に  \{e\} を単に  e と略記して、次のように書いて完全系列であるとき、

e \overset{f_{0}}{ \longrightarrow}G_1\overset{f_{1}}{\longrightarrow}G_2 \overset{f_{2}}{\longrightarrow}G_3 \overset{f_{3}}{\longrightarrow}\,e

これを「短完全列 (short exact sequence)」という。また、このとき、 G_2 は、 G_1 による  G_3 の拡大であるという。

上図の「短完全列」において、 \mathrm{Im} \, f_0 = \{e_{G_1}\} = \mathrm{Ker} \, f_1 だから、 f_1単射である。また、 \mathrm{Ker} \, f_3 = G_3 = \mathrm{Im} \, f_2 だから、 f_2全射である。

 \mathrm{Im} \, f_1  f_1単射であることを考えれば、 \mathrm{Im} \, f_1  G_1 が同型であることを意味する。準同型定理により、 G_3 = \mathrm{Im} \, f_2 \simeq 
G_2/\mathrm{Ker}\, f_2 = G_2/  \mathrm{Im} \, f_1 \simeq G_2/G_1

 G_2 は、 G_1 によって商空間に分解され、その各類が、 G_3 の空間の点に対応している形で分解されているというイメージで見ればよいのではないかと思う。群の場合は、準同型写像の核は正規部分群なので、\mathrm{Ker}\, f_2正規部分群である。 更にコホモロジーになると  G_2 \mathrm{Ker} \, f_2/ \mathrm{Im} \, f_1 みたいなものを定義して考えるようだ。定義からみると、他者に影響も与えないし、影響されてもいない部分を取り出して考えるということか?「完全」というのは、みな他者によって規定されていることである。


※ 短完全列を線形空間で考えれば、

 \mathrm{dim} \,G_2 \\
= \mathrm{dim\, Ker} \, f_2 +  \mathrm{dim\, Im } \, f_2 \\
=  \mathrm{dim\,Im } \, f_1 +  \mathrm{dim\, Im } \,f_2 \\
=  \mathrm{dim } \,G_1 +  \mathrm{dim} \, G_3

つまり  G_2 G_1 G_3 に分解されている。 G_2 の基底は  G_1 G_3 の基底が決まれば定まる。

※「完全系列」の意味が何なのかを哲学していたら、ジョルジョ・アガンベンドゥルーズ追悼の文章を脈絡なく思い出したので紹介しておく。

(以下、引用)

ドゥルーズが英語で< self-enjoyment >と好んで呼んでいたあの感覚以上に、彼の根本的な音色を見事に表現するものはない。私のメモによれば、(1987年)3月17日、彼はこの概念を説明するため、観想に関するプロティノスの理論について述べることからはじめている。「どんな存在も観想する」と、彼は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。どんな存在も観想なのです。そうなのです、動物でさえ、植物でさえ観想なのです・・・・。

・・・・万物が観想するわけです。花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分で自分を充たし、自分を享受するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。石はケイ素や石灰質を観想し、牛は炭素、窒素、そして塩を観想するわけです。これこそ、セルフエンジョイメントというものです。


セルフエンジョイメントというのは、自分であるということの小さな快楽、つまり、エゴイズムのことではありません。悦びを生産するような、さらには、そうした悦びがこれからも持続するだろうという信を生産するような、あの元素のあいだの縮約のことであり、固有な要件についての観想なのです。そういう悦びがなければ、人は生きていられないでしょう。というのも、心臓が止まってしまいますからね。われわれは、小さな悦びなのです。自分に満足するということは、忌まわしいものに抵抗する力を、自分自身のなかに見いだすことです。