雑記

瀬川昌久さんがよく語るように、前回の記事で出た堀内敬三は、日本のジャズ黎明期において二村定一が歌った『私の青空』『アラビヤの唄』に訳詞を提供したりして、日本におけるジャズの受容に功績がありながら、戦時中は一転して軍国主義に迎合し音楽の大政翼賛会のようなものを組織して、ジャズをはじめとする「敵性音楽」の徹底排除に協力した側である。なにせ、米国留学中の1919年にはポール・ホワイトマン楽団の演奏を直接聞いており、帰国後は1925年に始まった東京のラジオ放送局 JOAK のジャズバンドで指揮やアレンジや訳詞を提供していたくらいであるから、前回の記事で城戸四郎が映画についてA級戦犯の被告に対して語ったようにジャズに対して「無知」であったとはとても言えない人である。そんな人間が一転してジャズを統制する側にまわり、使用可能な楽器などの具体的な演奏方法を制約すれば、瀬川さんが言うように始末に終えなくなることは想像できる。