Song of the Vagabonds

f:id:noriharu-katakura:20180908083322j:image

 

今月号の文芸誌『群像』に松竹の城戸四郎について蓮實重彦が書いていたので『蒲田行進曲』の元歌である “Song of the Vagabonds” を掲載する。

 

前回の記事の1936年の第一次黄金期の日本映画のことをもう少しだけ書くと、日本の1936年の年間映画館入場者数は 2.5 億人で、これが 1941年までに 4.6 億人になる。2017 年の 入場者数、1.7 億人は 1928 年のそれと同じ程度の数字である。1923 年 の時期には統計がないが、9 月の関東大震災の1ヶ月後の旧作の上映ですら、通常をはるかに上回る多くの観客がつめかけたという。

 

1936 年の日本映画はざっと調べたら年間 558 本ほど作られている。これは 2017 年の 594 本とほぼ変わらない。それが敗戦の 1945 年には、44 本になるんだということは知っておくべきことだと思う。そしてこの年(1936年)に作られた映画は質が高く、まさに奇跡の年である。前回あげた 溝口健二の『祇園の姉妹』『浪華悲歌』以外にも、たとえば、内田吐夢の『人生劇場』、山中貞雄の『河内山宗俊』、小津安二郎の『一人息子』、伊丹万作の『赤西蠣太』、島津保次郎の『家族会議』、清水宏の『有りがたうさん』、マキノ正博にいたっては25本以上撮っている。これに欧米の洋画も加わるわけだから、この年にもし立会えば、映画ファンは絶対に体がもたず、「ぷへー」となって「もう勘弁して」となること間違いなしである。原節子は 15 歳だし、山田五十鈴は二十歳前、桑野通子は 21歳であった。

 

映画人として唯一人東京裁判で証言した城戸の内容がやはり面白い。A級戦犯の被告たちに対し「ここにいる被告の連中は実に映画に対して無知きわまるものである……由来日本の政治家は、いたずらに映画は害毒を流すかの如く誤信して、圧迫を以って終始し、映画の歴史は被圧迫の歴史であった。即ち映画を利用することを知らざるのみならず、この被告等を映画を通じて見た場合、文化人として真にとるに足らない人であった」というのは、知識人としては、映画を大衆へのプロパガンダとして活用しようとして研究したナチスにも及ばないと言っているのに等しい。

 

 

※ 松竹の映画製作は1936 年 1 月から本格的なトーキー撮影所である大船へ蒲田から移行するわけだが、桑野通子が出演するこの作品は蒲田作品になっている(もちろんロケーション撮影主体、というかロケーション撮影しかない映画であるが)。音楽指揮は『蒲田行進曲』の作詞をした堀内敬三である。台詞を清水宏監督が「ハイ気持ちなーし!」と役者に指導したというのは有名な話であり、この映画の台詞まわしでもそれが良くわかる。濱口竜介監督の演出方法はジャン・ルノワールの演出方法だけでなく、黄金期の日本映画の映画作法にも連なっているのだ。なお 1935 年に清水監督の作品でデビューし、桑野通子と六作ほど共演しコンビとして絶大な人気を誇った上原謙は、蓮實さんも「群像」に凡庸な監督(野村浩将) の作品であり、その連作の手放しの催涙性が松竹の女性映画の方向性を決定づけたことは城戸四郎の敗北であるとも書いている『愛染かつら』(1938) を「もっとも嫌いな自身の主演作」と語っている。ただし、蓮實さんは『愛染かつら』を戦争に協力する映画を作るよりはましだと考えた城戸のリベラリズムの表れだと擁護もしている。最後に、この映画で売られていく娘を演じている築地まゆみは1937年の12月に18歳の誕生日を迎えることなく肺炎で亡くなっている。

※ 蒲田スタジオで撮影された最後の作品は、茂原式トーキーシステムを採用した自身初のトーキー劇映画である小津安二郎の『一人息子』である(1936年9月15日公開)。撮影時、小津組以外、スタジオには誰もいなかったという。

 

1925:

Dennis King:

1945:

Art Tatum: