見える化

アブダクションがもたらす仮説の質の高さは、空間的にせよ時間的にせよどこまでの範囲の情報が考慮されているかに依存する部分が大きいのでないかと思う。アイザック・ニュートンが運動の三法則をアブダクションしたときに、「林檎の実」が目の前で落ちたという事実だけでなく、さすがに月とか太陽とかの天体の運動ぐらいは同時に考慮に入れたのではないかと思う。蓮實重彦が東大総長だった時期に「学力低下」が現代の社会問題であるとさかんに言われていたことがあったが、蓮實は夏目漱石旧制高校の学生の英語の力の低下を嘆いていたという事実をひき、それは現在の社会だけに特有な問題ではなくて、大衆化した社会が必然的に歴史としてたどるコースではないのかと切り返していたことを覚えている。

 

結局、目の前の手近な情報だけ集めてくれば、なんでも解決できるだろうと想定し、歴史的に同じ事象が起きていなかったかとか、他の国の例ではどうだったんだろうとかといった距離が離れたいま目の前にはないところからの情報参照ができていない仮説というのは、どうしても質が低下してしまうのだと思う。もっと簡単な例でいうと「オウム」と「インコ」を見て「鳥」とはなにかを考えるのと、「ペンギン」と「スズメ」で「鳥」を考えるのでは仮説の質は当然変わってくるだろう。

 

映画作品の批評でも、小津安二郎溝口健二の映画をろくに見ていないことが窺える人のものは明らかに駄目だし、もっといえば普段テレビしか見ておらず、ハリウッドの黄金期の作品の記憶を具体的にもたない人間が『ラ・ラ・ランド』を持ち上げたりするのも同じことである。

 

このように目の前にある見えるものだけが過度に強調されるような状況が始まるのは、映画の場合、スクリーンが大型化する50年代あたりからで、ハリウッドが完全に崩壊した70~80年代に入ると目の前にある視覚情報がビジュアルに強調された作品が氾濫するようになる。最近文庫本にもなった『ハリウッド映画史講義』で蓮實は1942年のジャック・ターナー監督の『キャット・ピープル』と1982年のポール・シュレイダー監督によるそのリメーク作品を比較してこう書いている。

 

オリジナルでは暗示的なショットの効果的な連鎖によって雰囲気として語られていた変身過程が、シュレイダー版では見えるものとして示され、視覚いがいの諸々の感性を刺激する前者の修辞学は、後者では、もっぱら瞳ばかりに働きかけるイメージに置き代えられている。

 

さらに引用すると、

 

露呈された性器そのものを(ヘイズコードの廃止によって)スクリーンに映し出す権利を獲得した映画は、それと同じ水準で、狼へと変身する少年の顔のクローズアップや、からだから切り離される悪魔憑きの少女の首や、孵化する地球外生物の幼虫や、斧で割られる若い娘の頭蓋骨を特殊効果で視覚化する権利を獲得したのだが、それと交換に肝心なものを絶対に見せないことで成立するサスペンスという形式を放棄してしまったのである。もはや扉の蔭の秘密や影なき恐怖は語られず、ドアーは見世物的にたたき割られ、怪物が視覚の全面をわがもの顔に跳梁するのみだ。


このような極端な例にはとどまらず、アメリカン・ニューシネマでは「ビジュアル(視覚効果)」の一種である「スローモーション」や「ズーム」といった安易な技法がまるで登録商標であるといわんばかりに氾濫するようになる。その効果は、目の前の瞳にはたらきかけるイメージをこれでもかと更に引き延ばし、遅延させて強調することであり、それによって映画からは貴重なものが奪われていくのである。更に引用を続けると、

 

ラオール・ウォルシュならワンショットで片付ける活劇における犯罪者の最後を、『俺たちに明日はない』(67) のアーサー・ベンは何十秒もかけて撮ったのだし、ヒッチコックならたった一つの切り返しショットできわだたせたであろうサスペンスを、『キャリー』(73)のブライアン・デ・パルマが何十秒にも引きのばしたことが、その変化を雄弁に証拠だてていよう。その結果として、アメリカ映画は二つのジャンルを失う。サスペンス映画と西部劇である。


以上のようなことは映画だけではなくて、現在の状況でいえば、スタンプがあちこちに存在するビジュアル・メールよりは、きちんと構成された変換ミスのない文章が存在するメールを読みたいであるとか、個性的であることに腐心するあまり、ビジュアル的な後処理が過剰に施されたことで却って画一化してしまった女性の顔の写真よりは、その本来の美しさをできるだけ邪魔しないために余分なものを削ぎ落とすことに繊細な配慮をした写真を見てみたいというのが、現在では贅沢な願望となってしまったことからも窺える。

 

前にも書いたのだが、可愛そうなのは子供たちである。「読解力の不足」は、こうした見えるものだけが強調される社会の必然の流れなのではないかと思ってしまう。