塵埃と頭髪

詳しくは、「『ボヴァリー夫人』論」を参照。

 

ボヴァリー夫人』で「塵埃」と「頭髪」の機能の類似にはっきりと気づかせてくれるのはジュスタンのところである。

 

ジュスタン1:

そう言うがいなや、彼はマントルピースに手をのばしてエンマの靴をとった。その靴は泥に、逢い引きの泥にすっかりまみれていた。指が触れると泥は散り散りに粉となり、彼はそれが一条の日差しを浴びながら静かに舞いのぼるのをじっと見ていた。

 

ジュスタン2:

彼は子供たちといっしょに上の部屋へあがって、扉のわきに立ったまま、じっと動かず黙っていた。ボヴァリー夫人は、それを気にもとめないで身じたくにかかることがよくあった。彼女は、まず櫛を抜いて頭をさっとひと振りするのだった。その髪全体が漆黒の巻毛をくりのべて膝の裏まで垂れおちるのを、このあわれな小僧がはじめて目にしたとき、突然なにか新しい尋常ならざる世界に入ったようで、その眩い美しさに戦慄したのだった。

 

散り散りとなった泥の粉にせよ、くりのべられるボヴァリー夫人の頭髪にせよ、表面に存在するものがそこから離れて軽やかに運動するという類似した機能が存在しているが、作品という体系の中では、その機能に依存はするものの、それだけでは説明がつかない新たな作品固有の機能が発現している。その新たな機能とは、それを凝視するものに自分が自分ではなくなるという忘我の体験をさせるということである。ジュスタンは日差しを浴びて舞い昇る埃やさっとひと振りされ膝の裏まで垂れおちる黒髪によって己を奪われて自らも散り散りとなる体験をしているのである。

 

このような主題の機能は結婚前のシャルルとエンマの場面にもある。

 

シャルル1:

 

彼女はいつも玄関の一番下の段まで彼を見送るのだった。彼の馬がまだ連れてこられていないと、彼女はそこに残っていた。別れの挨拶は済んでいて、もう話さなかった。強い風が彼女を包んで、頸の短いほつれ毛を乱雑に煽り、腰のところでエプロンの紐を揺さぶって吹き流しのようによじらせていた。

 

シャルル 2:

彼女は再び腰をおろして、縫い物をまた始めた。白木綿の長靴下を繕っているのだった。彼女はうつむいて働いていた。彼女は黙っていた。シャルルもまた黙っていた。扉の下から入ってくる風が、石畳みの上にわずかな埃を立てていた。彼はそれが移動していくのを見ていた。彼に聞こえていたのは、こめかみが脈打つ音と、遠くの庭先で卵を産む雌鶏の鳴き声だけだった。

 

これとは別に塵埃には過去を追憶させるという機能もある。

 

ルオー爺さん:

 

婚礼が終わって二日たつと夫婦は出発した。シャルルには患者があり、それ以上は家を空けておけなかった。ルオー爺さんは自分の馬車で二人を送らせ、自分もヴァソンヴィルまで一緒に同乗した。そこに着くと、爺さんは娘に別れの接吻をして車から下り、やってきた路を引き返していった。百歩ほど行ってから立ちどまった。そして車輪が土埃(つちぼこり)をあげながら馬車がだんだん遠ざっていくのを眺めて深い溜息をついた。それから自分たちの結婚式のこと、若かったときのこと、妻がはじめて身ごもったときのことを思い浮かべるのだった。

 

エンマ:

彼女はざら紙に書かれているその手紙をしばらく手にしたままでいた。それは文字の間違いがいり乱れていて分かりづらかったけれども、茨(いばら)の生垣になかば隠れている雌鶏(めんどり)がこっこっと鳴いているのを追いかけていくように、エンマはその紙背にやさしい情愛の所在を確かめていった。暖炉の灰をふりかけてインクを乾かしたらしく、わずかばかりの灰色の埃(ほこり)が手紙からすべり落ちて彼女のドレスへはらはらとこぼれ落ちた。父が火床のほうへ身をかがめて火挟みを取っている姿が眼(ま)のあたりに見えるようだった。なんと遠い昔のことだろう、父のかたわらで、炉ばたのスツールに腰かけて、ぱちぱちはぜるハリエニシダが燃えさかる炎で棒きれの先を焼いたりしていたのは!…

 

シャルル:

シャルルが入ってきたが、二人は目を覚まさなかった。これは、最後だった。彼は彼女にお別れを告げにきたのだった。香草はまだ燻(いぶ)っていた。青みがかった煙の渦が、外から流れこんでくる霧と窓辺で溶けあっていた。星影がちらついていて、夜はやさしかった。ろうそくから流れる蠟(ろう)の雫が大粒の涙となって、ベッドの掛け布の上に落ちていた。シャルルはろうそくが燃えているのをじっと見つめ、その黄色の炎の輝きで目が疲れてきた。月光のような白さで輝く絹のドレスにモアレ地の波紋がきらきらと震えていた。エンマの姿はその下にいて何処(どこ)かわからなかった。まるで彼女が自分の外へとひろがりだし、周囲の事物のなかに、静寂(しじま)のなかに、夜の闇のなかに、吹きわたっていく風のなかに、しっとりと立ちのぼる薫りのなかに、いずこともしれず溶けこんでゆく気がした。それから、突然、彼は彼女を見るのだった。トストの庭の茨(いばら)の垣根にそっておかれたベンチの上に、ルーアンの通りに、自分たちの家の戸口に、そしてベルトーの中庭に。林檎の木陰で踊っている陽気な若い男たちの笑い声がいままた聞こえてきた。二人の寝室は彼女の髪の匂いで満ちていた。そして自分の腕の中で、彼女の花嫁衣装はぱちぱちと火花のような音をたてうち震えたのだった。これはあのときのドレスじゃないか!こうして長い間、彼は消えさったすべての幸福、彼女の折々の様子、彼女のふとした身振り、彼女の声の響きを思い浮かべるのであった。

 

そしてシャルルの死。彼はすでに動くことのないエンマの記憶としての黒髪を握りながら、文字通り希薄化し、散り散りとなって外界に拡散していくように亡くなるのである。

 

翌日、シャルルは青葉棚のベンチへ行って腰をおろした。陽光が格子の間から射しこんでいた。葡萄の葉は砂の上に影を描き、ジャスミンは芳香をはなち、空は青く、咲きほこる百合のまわりでハンミョウは羽音をたてていた。そしてシャルルは、まるで青年のように、つかみどころのない恋の高まりに切ない胸が張り裂けそうで息が苦しかった。七時になると、午後のあいだずっと父親の姿を見ていなかった娘のベルトが夕食に呼びにきた。父親は仰向けに頭を壁にもたせかけ、眼を閉じ、口を開け、そして両手に長いひとふさの黒髪を握っていた。「お父さま、いらっしゃいな ! 」娘は言った。そして、父親がふざけているのだと思って、娘はそっと突いた。彼は地面に倒れた。死んでいた。三十六時間後、薬剤師の求めに応じて、カニヴェ先生が駆けつけた。死体を開いたが、なにも見つからなかった。