シンセシス

アブダクションとは仮説的なものを発見する推論であり、シンセシスを行うための基礎となるものであるというのは、吉川弘之先生から大昔に教わった。学生のときの思い出などほとんど残っていないが、たまたま東大総長を勤められることになる吉川先生と蓮實重彦先生のお二人の講義を同じ時期に直接聞いた経験はさすがに記憶に残っていて、最初はまったくかけ離れた独立した領域と思えたものが、長い時間をかけていつしかお二人の言っておられることが頭の中で重なりあってきたように思う。

 

詳しい話は省略するが新たな領域は,いくつかの異なる既存の領域の組み合わせから生成されることがある。そのためには既存の領域同士に重なりを認めなくてはならない。このような重なりを得るためにアナリシスをいくら突き詰めても無駄である.ある視点で成立した領域でのアナリシスはその中の対象を理解するのには効率がよいが、そのために領域を他の領域とは無関係な独立なものとして見なす傾向があるからである。たとえば、アイザック・ニュートンの運動の三法則が成立すると考えられる領域の中では、法則を演繹的に適用すれば少なくとも原理的には詳細に現象を理解することが可能になる。ところが、それではなぜ運動の三法則がアブダクションされたかについては領域の外の話となってしまい、ニュートンが「林檎の樹から実が落ちるのを見た」からという神話の世界のような話になってしまう。

 

シンセシスの基礎となっているアブダクションについては工学の人たちがあれこれいっていることよりも、たとえば蓮實さんの「『ボヴァリー夫人』論」の「塵埃と頭髪」を読んだ方がより理解されると思う。そこに

 

ボヴァリー夫人』の「テクスト的な現実」は、この二つのオブジェ(塵埃と頭髪)の類似や等価性をことさら気にもとめずにいたものたちを少なからず驚かせる

 

と書いているように、通常は異なるものとして独立に見なされる二つのオブジェが、『ボヴァリー夫人』のテクストという機能発現の場において「重なり」が生じて新たな領域を生成するシンセシスの過程が、神話ではなくこのうえない繊細な大胆さで、そして途方もない美しさで「テクスト的な現実」として記述されているのである。