ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

裸の拍車

1953 年のアンソニー・マン監督作品で、原題は “The Naked Spur”。

うまくいくときもいかないときもあるが、映画を見るときは、アブダクションを試みていることが多い。アブダクションとは C. S. パースが「演繹」「帰納」とは違うタイプの推論として導入したものである。つまり、

  1. 出来事の集合 A  (= 映画の画面の連鎖) がある
  2. 仮説 B だったら A を矛盾なく説明できる
  3. だったら仮説 B はいくつも存在しえる解釈のひとつになっているかもしれない

ということになる。

この作品の最後の闘いのシーンは YouTube にクリップがある。

ほとんどが、ロケーション撮影の作品であるが、特にこのシーンのロケーションは本当にすばらしい。水と空と陸が3つとも存在しているいわば臨界点のような場所であり、マンは、「水ー陸」「空ー陸」というように背景をたくみに切り取って撮影している。たとえば、断崖を登るスチュアートは、「空ー陸」の組み合わせだが、水平軸をしめるライアンの方は、「水ー陸」の組み合わせで撮影されている。

堰を切ったように流れが逆巻く川の傍らに、圧倒的な存在感の巨大な幾何学的形状の岩の塊が提示され、まるでその塊と一体化しそこへ溶け込んでしまいたいという欲望を果たさんとするかのように、二人の男が岩肌にぴったりと密着している。水平に横たわるのは、ロバート・ライアン。垂直に岩をよじ登ろうとしているのはジェームズ・スチュアートである。なお、スチュアートの足場を画面に映し出さないことによって垂直方向の不安定感が巧みに演出されていることにも注意したい。岩の塊は画面の中で単に風景の「構図」として提示されるのみならず、ライアンとスチュアートの二人の間で繰り広げられる闘争を岩の「水平ー垂直」の二軸によって対比させ強調することによって、有効な「語り」となって物語に参加している。

二項対立というのは、どちらかの項が優位であるかを暗黙の前提にするものだが、ここでは明らかに水平軸を占めているライアンが垂直軸のスチュアートに対して優位を占めている。このように、フィクションが有効に語られるためには、しばしば二項対立が必要とされるが、映画のフィクションはその対立の図式性を思ってもみなかった運動によって解消しようとする。ここでは、それはどうやって解消されるか。ライアンが右方向へ匍匐移動し、スチュアートもまた岩をよじ登っていく、両者の緩慢な動きの中で、スチュアートは突然、右手に持った拍車をライアン目がけて投げつけ、一挙にその劣位を解消するのである。

そもそも、そこで使用される円盤状の「拍車」は、映画の始まりとともに、馬に騎乗しているクロース・アップにより用意周到に提示されていたものである(下の写真)。

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映画作品が単なる現実の反映ではなく人工的に構成されたフィクションである由縁は、この作品のように拍車が単なる馬具として、騎乗した馬に推進力を与えるという常識的な機能を提供することを超え、与えられた物語の文脈の中で思いもかけない機能を顕現させる点にある。実際、拍車はライアンの顔面に突き刺さる飛び道具として活用される以前にも、断崖をよじ登るためのハーケンの代替としての機能を与えられスチュアートによって使用されている。より一般的にいえば、拍車という主題の新たな発現機能が物語を別の局面へと導いているとも言えるのである。

 

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