若い人

混雑した通勤電車での不快さが更に募らされるときがあって、多くの場合そうさせているのは、いつの頃からかは覚えていないが車両の中に掲示されている書籍の広告である。

 

その電車の広告たちが紹介しているそれぞれの本は、ただの一度たりともそれを眺めている疲弊したサラリー マンによって購入され、読まれたことはないものの、それをみつめるたびに、いろいろな「意識の流れ」を喚起してしまうという点では、たとえば、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』 の「窓」と題されている第一部で反復されるだけで決して行かれることのない「灯台」や、決して渡されることはなく、完成したかどうかも不明なラムゼー夫人の「編みかけの赤茶色の長靴下」のようなものと言えるかもしれない。

 

その広告に読まれる、本の効用をあまりにもわかりやすく伝えようとするが故に、羞恥心が欠如しているとしか思えない、本当なのかも強く疑わせる文章から生じてきた本日の「意識の流れ」は、読書はいつから個人的な淫靡とさえいえる秘めやかな体験であることを止めたのだろうという愚にもつかない思いであった。それから不図、

 

「次の夜彼等はお互いの愛を誓いあった」

 

という石坂洋次郎の『若い人』の文章が意識に浮上して驚いた。といっても文章を一言一句正確に記憶していたわけでなく、そのときは文章のイメージだけが浮上したに過ぎない。この文章を書くためにインターネットで確認しようとしたのだが、石坂洋次郎の小説『若い人』は検索で引っかかってくるものの、この文章そのものを引用している人はなかなか見つからなかった。しかし、 とうとう青空文庫にある宮本百合子によって1940年に書かれたとされる文章に、この

 

「次の夜彼等はお互いの愛を誓いあった」

 

が引用されていることを見つけた。 もっとも実際に読んだ文章は旧仮名遣いだったかもしれないが、そこまでは覚えていない。

 

『若い人』は、小学校高学年か中学生になったばかりの頃、両親のどちらかが若いときに買ったと想像するが、家に置いてあった日本文学全集の中に収載されているのを見つけて、布団に 寝転がって読んだことを微かに覚えている。宮本百合子も、

 

石坂氏の「若い人」でもう一つ興味をもって感じたのは、終りで、 江波と肉体を近づけた後の間崎の敗北に足並みをそろえて遁走している作者の姿 であった。江波と初めてそういういきさつに立ったところを、「次の夜彼等は お互いの愛を誓いあった」という一行だけかいて避けているところも印象に残る

 

と書いているように、ここまで読者を散々引っ張ってきてこの短い一行だけで済ましてしまうのかと子供心にも癪に障ったので覚えているのだろう。

 

しかし、いま冷静に考えてみるとこの文章にはそこで直接的に示される意味の他に、当時は具体的には想像できないまでも、様々な言外の意味も含まれてるということを暗示してくれる教育的刺激になってくれている。子供の「読解力不足」が最近言われるが、それは決して「文字」を読むことが不足しているためではないだろう。インターネットに流れる情報の大部分は未だに「文字 」であるし、電車の新刊の広告にも、それこそいっぱいの文字が存在している。不足しているのは、読解力を養ってくれるような多様な「教育的刺激」であり、その淫靡でさえある潜在的で細やかな刺激を失わせているのは大人社会のせいであろう 。そうではないか、「わかりやすい」「均一化された」メディアや繋がって同調していさえすれば生きていけるSNS社会で、どうやって細部としての多様な「教育的刺激 」が子供たちに提供されるのだろうか。