雑記

今月号の文芸誌 「新潮」にあった「映画から動画へ」という文章を読んでその「ポスト・ツゥルース」時代に相応しい文章に辟易する。「スター・ウォーズ」のシリーズ第一作を封切当時に見たときからこれといって心を動かされた体験をした記憶がない自分としては、それと最新作を比較して色々論じられてもまったく興味が湧かない。まして

 

ラ・ラ・ランド』のように、皆がノスタルジアに浸り、等しく自分に相応しい幻想=快感を覚えるというような類の映画

 

とかいったくだりを読むと、はっきりしているのは「皆」には少なくとも自分は含まれていないことで、当時、映画を冒瀆するなと思いながら危うく席を立ちそうになった苦々しい体験が蘇ってきてまた不快な気持ちにさせられた。折角、忘れかけていたのに。鈴木清順追悼のインタビューで蓮實さんはこう言っていた。

 

しかし、チャゼル監督に関しては、こう言いたい。『東京流れ者』に関してはともかく、清順さんは1950年代から撮っていた人であり、他の映画をまともに見ていますか。清順さんはごく普通に映画が撮れる人なんですよ、と。

 

もちろん、自分が存在してもいない時代や場所に郷愁を抱くということはないわけではなかろう。個人的な記憶を辿れば、初めてバングラデシュに行ったときボロボロになったバスを見たり、ホテルの玄関で流れていたジャズを聞いたときに妙に懐かしさを感じたこともある。しかし、『ラ・ラ・ランド』の醜悪な画面からはそんなものは一切迫ってこなかった。そこにあったのは「古き良き時代」の一般的「情報処理」に過ぎず、映画の画面はその郷愁が上辺だけのものに過ぎないことを強調するかのように「テクニカラー」はまったく違う発色だし(とくに夜のシーン)、「ハリウッド黄金時代」には絶対存在しないむごいまでの照明があたっている。そこに出てくるジャズにしたところで


チャーリー・パーカーのニックネームはバード!」


などという台詞 というより説明から、どうやって「郷愁」を感じとればよいというのか。