おもしろい(7)

夏目漱石の『三四郎』が、「水」抜きでは語れないぐらいのことは今や周知の事実であり、それをここに繰り返すのはジャイアント・パンダを「かわいい」と誰もが芸もなく繰り返すぐらい醜悪なことだと思いつつも、「主題論」と「説話論」の連携がここまで完璧に機能してしまっていいのかと思わせるこの作品をあくまで「入門用」として紹介しておきたい。といってもこの作品の場合、「語り」に結びついている「水」の主題を素直に読みとればいいのだ。

 まず、三四郎が上京中に名古屋で汽車をおりて同乗していた女と宿屋に泊まるところで風呂場の場面がある。この場面は、大学の池の傍らで美禰子と出会う場面を前もって組織していることは言うまでもない。実際、三四郎は池の水の面を見詰めていて眼を上げたときに美禰子と看護婦の二人連れを認めるのだが、その直前に

三四郎はこの時赤くなった。汽車で乗り合わした女のことを思い出したからである。

という記述がある。

 続けて汽車の中で広田先生に勧められて「水蜜桃」を食べるところがある。ここでは、広田先生に次の発言がある。

「実際危険い。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をした事がある。ところがその桃を食って死んだ人がある。危ない。気をつけないと危ない」

 ここは、三四郎がインフルエンザで寝込んでいて、よし子が見舞いに来る次の場面を遥かに予告している。よし子は美禰子からのお見舞いである蜜柑を携えている。

「蜜柑を剥いて上げましょうか」

女は青い葉の間から、果物を取り出した。渇いた人は、香に迸る甘い露を、したたかに飲んだ。

そしてその直後によし子の口から美禰子の縁談が纏まった決定的事実を三四郎は明確に知らされるのである。

 名高い大学の池の場面。

三四郎が凝して池の面を見つめていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。

池の面に反映した上下対称の深い世界の出現。その対称の中心となる「池の面」。このとき、「池」は三四郎の世界における拡がりの中心としてだけでなく、垂直方向を貫く強度の中心にもなることで、作品の座標軸がここに完成している。そしてその中心が「一般空間」の原点だけではなく「強度の中心」にもなるのは、もちろん「絶対的」差異としての美禰子が出現するからである。

「これはなんでしょう」と言って、仰向いた。頭の上には大きな椎の木が、日の目の漏らないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水際まで張り出していた。「これは椎」と看護婦がいった。まるで子供に物を教えるようであった。「そう。実は生っていないの」といいながら、仰向いた顔を元へ戻す、その拍子に三四郎を一目見た。三四郎は慥に女の黒目の動く刹那を意識した。その時色彩の感じは悉く消えて、何ともいえぬ或物に出逢った。

そして、女は今まで嗅いでいた「白い花」三四郎の前へ落として行く。

三四郎は女の落として行った花を拾った。そうして嗅いでみた。けれども別段の香もなかった。三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いている。

この瞬間、「水の面」は美禰子のシニフィアンとして明確に結びつく。このとき重要なのは、それは空間的「拡がり」という「量」の側面よりも、何よりも「水の面」が世界を反映する「鏡」であり、捉えどころのない「流動性」をもっているという側面である。それは、よし子の病室を訪れた際に、三四郎が大学病院で美禰子の姿を再び認めた際に、美禰子の衣装がどう描写されているかで確認できる。

着物の色は何という名か分らない。大学の池の水へ、曇った常磐木の影が映る時のようである。それは鮮やかな縞が、上から下へ貫いている。そうしてその縞が貫きながら波を打って、互いに寄ったり離れたり、重なって太くなったり、割れて二筋になったりする。不規則だけれども乱れない

広田先生の引越先での場面で二人は親しくなっていく。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に接近するとき、三四郎の手には水の入った馬尻(バケツ)が提げられていることを見落としてはならない。

美禰子は、水の面であり、それは空を反映する。二階での会話。

「何を見ているんです」
「中てて御覧なさい」
「鶏ですか」
「いいえ」
「あの大きな木ですか」
「いいえ」
「じゃ何を見ているんです。僕には分らない」
「私先刻からあの白い雲を見ておりますの」

「白い雲」は、この後「駝鳥(だちょう)の襟巻(ボーア)」に喩えられることになるのだが、ここで重要なのは、あくまで美禰子が垂直の世界を反映して、そこへ三四郎を招く存在であるということである。美禰子は水の世界へと三四郎を誘う。

「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水の匂がする。画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛で梳きながら、梳き余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。

「人魚(マーメイド)」
「人魚(マーメイド)」

頭を擦り付けた二人は同じ事をささやいた。

菊人形を見に行った場面もほぼ同じであろう。このとき、二人の足下では小川として水まで流れているのである。

「空の色が濁りました」と美禰子がいった。

三四郎は流れから眼を放して、上を見た。こういう空の模様を見たのは始めてではない。けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時が始めてである。気が付いて見ると、濁ったと形容するより外に形容のしかたのない色であった。三四郎が何か答えようとする前に、女はまた言った。
「重いこと。大理石のように見えます」

そして足の前にある「泥濘」で美禰子がバランスを崩すことが二人を更に接近させることは言うまでもない。

「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」

と物語の冒頭で言われている三四郎だが、運動会の場面において、池を高い崖から見下ろす場所で美禰子が

「あなたも(池に)飛び込んで御覧なさい」

というのは、よし子に向けられた冗談のように書かれているが、この言葉は真意としては三四郎に向けられた美禰子の挑発なのである。それは二人の最初の出逢いで美禰子が「これはなんでしょう」と看護婦に椎の木について尋ねる言葉が、三四郎の存在を意識しながら発せられているのと同じことである。この美禰子の挑発に三四郎が対応できないことが、その後の二人の関係の破綻の始まりである。物語はここで転調を迎え、天候までが湿ってくる。実際、三四郎が広田先生と画家の原口の話から美禰子が絵のモデルになる話を聞いて広田の家をでた直後に

戸外は寒い。空は高く晴れて、どこから露が降るかと思う位である。

とあり、続けて、三四郎が与次郎に戻ってくることのない金を貸す晩には秋雨が降っている。そして、金を借りるための美禰子の家への訪問。その後、展覧会で二人が見るヴェニスの絵は、過去の二人の間の「水の思い出」を回想するかのようである。そして最後に二人は雨に包まれるのであるが、その雨はこの作品の主題から言えば美禰子が別れとして自分の身を抹殺するかのように三四郎に降らせているのである。

雨は段々濃くなった。雫の落ちない場所は僅かしかない。二人は段々一つ所へ塊まって来た。肩と肩と擦れ合う位にして立ち竦んでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきの御金を御遣いなさい」

といった。

それから、画工である原口のアトリエの場面が訪れる。美禰子は原口の絵のモデルになっている。

静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。

池の場面が「静止画」として写し取られることで、美禰子の「水の面」における「反映」の機能と「流動性」が決定的に廃棄されてしまうシーンとして読まれなければならない。つまり、この場面で「水の女」である美禰子は死を遂げているのである。

水の女」である美禰子は「森の女」という題名の「静止画」に変わり果て、作品が終了する。

「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすれば好いんだ」
 三四郎は何とも答えなかった。ただ口の内で迷羊、迷羊と繰返した。