ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

おもしろい(2)

説話論と主題論の実例。

正岡子規には『わが幼時の美感』という文章があって、下はその冒頭部分を引用したものである。

極めて幼き時の美はたゞ色にありて形にあらず、まして位置、配合、技術などそのほかの高尙なる複雜なる美は固より解すべくもあらず。その色すらなべての者は感ぜず、アツプ(美麗)と嬉しがらるゝは必ず赤き花やかなる色に限りたるが如し。乳呑子のともし火を見て無邪氣なる笑顏をつくりたる、四つ五つの子が隣の伯母さんに見せんとていと嬉しがる木履の鼻緖、唐縮緬の帶、いづれ赤ならざるはあらず。こゝろみにおもちや屋の前に立ちて赤のまじらぬ者は何ぞと見よ。白毛黑髮の馬のおもちやにさへ赤き臺の車はつけてあるべし。

つまり子規は幼いとき「赤色」が異常に好きだったことがわかる。こういった「赤色」のような「心の動き」のきっかけを作品の話者が語る具体的細部としてあくまで唯物論的に見出していくのが「主題論」であろう。そして眼には見えない「心の動き」をその「主題=具体的細部」が語りを実際に変容させる「説話論的変容」としてこれもまた具体的に確認していくのである。

蓮實重彥の著作『赤の誘惑』には、子規の病床での日記『墨汁一滴』の冒頭二日間 (1/16, 1/17) が引用されている。

病める枕邊に卷紙狀袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾をくゝりつけたるは病中いさゝか新年をことほぐの心ながら齒朶(しだ)の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙(だい〴〵)を置き橙に竝びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨(そこつ)の贈りくれたるなり。直徑三寸の地球をつく〴〵と見てあればいさゝかながら日本の國も特別に赤くそめられてあり。臺灣の下には新日本と記したり。朝鮮滿洲吉林黑龍江などは紫色の內にあれど北京とも天津とも書きたる處なきは餘りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に變りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに狀袋箱の上に竝べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱(ほうらい)なり。

枕べの寒さ計に新年の
年ほぎ繩を掛けてほぐかも

(一月十六日)

一月七日の會に麓のもて來こしつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠の小く淺きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいさゝかばかりづゝぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に龜野座といふ札あるは菫の如き草なり。こは佛の座とあるべきを緣喜物なれば佛の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行とあるは厚き細長き葉のやゝ白みを帶びたる、こは春になれば黃なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子の札あり。はこべらの事か。眞後に芹と薺(なづな)とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾のふゝみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜とあるは丈三寸ばかり小松菜のたぐひならん。眞中に鈴白(すゞしろ)の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪(あかかぶら)にて紅の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊にきはだちて目もさめなん心地する。『源語』『枕草子』などにもあるべき趣なりかし

あら玉の年のはじめの七くさを
籠に植ゑて來し病めるわがため

(一月十七日)

「赤」の主題は、話者が「赤」を眼にすることで、1901 年 1 月に設定されている時間をいきなり 20 世紀末という語りの時点からの未来や、『源氏物語』と『枕草子』の書かれた遠い過去へ移行させるという「説話論的」機能を発現させていることがわかる。一番最初の引用をテクストと見るならば、話者は「赤」を契機に幼時の思い出として過去を語っていることになる。

子規の作品では「赤」の「主題」が時間を移行させる「説話論的」機能を発現させるというのはどこまで有効なのであろうか?たとえば子規のだれでも知っている俳句、

柿食えば鐘がなるなり法隆寺

は、柿の「赤さ」に注目した場合、法隆寺という歴史的建造物に語りが結びついている。次の和歌の場合もいいだろう、

紅梅の花ぞめ產衣うち着せて
神田の神に千代をこそ祈れ

「赤」が主題として出てくる子規の作品は、それこそたくさんあるが、すべてがいま言ったような説話機能に結びつくわけではない。しかし、映画でいえばキャメラが続けてロングに引かれて全体の情景を見せるような語りにはなっていることが多い。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の
針やはらかに春雨のふる

鷄頭の十四五本もありぬべし

春風にこぼれて赤し齒磨粉

赤き牡丹白き牡丹を手折りけり
赤きを君にいで贈らばや

赤とんぼ筑波に雲もなかりけり

子規の作品という環境に置かれたときに「赤」という主題は、時間を移行させたり、遠景へと視点を移行させたりする潜在機能をはじめて発現すると考えられるので、この機能発現は「子規」ととりあえず呼ばれる話者固有の「語り」を特徴づける。そしてそれは、コンテクストから漂流したり遅延化したりすることで、漠となったり「わかりやすい嘘」となって固定化された「正岡子規」のイメージを批判可能にする。

ここからは音楽。ビックス・バイダーベックの演奏を聴く。

BIX BEIDERBECKE - THERE'LL COME A TIME - YouTube

 

「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

 
墨汁一滴 (岩波文庫)

墨汁一滴 (岩波文庫)