オクシモロン的に

数学というゲームが古典論理に基づくのは、ゲームをする上での規則みたいなもので、それに従うのは全然違和感はない。一方、ロジカル・シンキングの信奉者には申し訳ないが、実世界に適用された (古典) 論理そのものは、凡庸で退屈で単純すぎるし、それがあたかも当然の前提のように主張されると堪らなくなる。命題は真か偽かのどちらかであり (排中律)、人間は「真」であることを希求するという前提が、人生のゲームの規則とはとても思えないのだ。たとえば、排中律を無自覚に適用して、「人間は男であるか男でないかのどちらかである」みたいな言明が真であると主張する「論理主義者=差別主義者」とは徹底的に戦うべきであろう。


ドゥルーズは「思考という積極的意志、真なるものへの欲求や自然的な愛が人間の中にあると想定するのは哲学が犯す誤りである」言っているが、この誤っているとされる前提でとくに堪らないのは、「偽」をしりぞけ、「真」なるものだけを探求するという態度である。そこでは、「真」であることだけに価値がおかれ、「偽」であることにも価値があるということが無視されている。

創造性の必要条件とは、融通無碍な「記号」の存在を一般論理における「排中律」から解放することではないかと考えたことがあった。「矛盾」ではなくオクシモロン的な「共存」を考えること。たとえば、マルセル・プルーストは、「長さ」が「短さ」の反対語でしかない一般性を明らかに疑っており、それが当たり前だと思われている一般的見方に苛立っている。プルーストにとって「長さ」と「短さ」はまったく異なる場において別々に存在しており、もし、その二つが遭遇=共存するとしたら、それは当たり前と思われている世界の構図がぐらりと揺らぐ瞬間でしかない。一般性の共通空間に「長い」と「短い」を住まわせてそれが反対語であることは自明だと思ったり、その二つを共存させることは矛盾だと思っている人間には、「長いあいだに、私は早くから寝るようになった」から始まるあのひたすら長い小説が書けるわけはないし、最後の「見出された時」で敷石につまずいてバランスを崩した不安定な瞬間に突然「長さ」と「短さ」が「矛盾」ではなく異質なものとして「共存」してしまう小説など書けるはずもなかろう。

 

クリスマスソングの続き。