短期的な経済価値と作品価値

前回の記事で、一般には日本映画がピークを過ぎて経済的には崩壊しているとされる時期にさえ、充実した質の高い作品が作られていたことを三隅研次監督の作品を例にとって説明したが、そのような例は、実は枚挙にいとまがない。たとえば、前の記事で名前を出した中川信夫監督が1961年に倒産する新東宝で作った『東海道四谷怪談』(1959) がその例にあたるし、日活ロマンポルノで傑作を作った神代辰巳曽根中生といった監督の作品もそれにあたるだろう。

 

これは何も日本映画に限った話ではなく、ハリウッド映画を見た場合だってそうだ。たとえば、ハワード・ヒューズによってボロボロにされ、紆余曲折の末 1957 年 1 月には完全に消滅してしまう RKO 社の作品にしたところで、ヴァル・リュートンが製作し、ジャック・ターナーが監督した、低予算かつ早撮りの『キャット・ピープル』(1943, Cat People) を始めとする名高い一連の RKO ホラー作品がそうだし、ニコラス・レイ監督のあの感動的な処女作『夜の人々』(1948 年、ただしハワード・ヒューズの RKO 社乗っ取りにより3年間オクラ入りとなる)だって映画史の傑作である。

 

つまり、映画は産業として経済的に隆盛していようが崩壊していようが、そういった経済的見取図にはおかまいなく、突然変異的に時空を超えて傑作を生み出し続けているということである。それは、題材やら企画やらシナリオの良し悪しやら、製作費他のリソースをいくら投入したとか、構想に時間をかけてそれを磨き上げたとか、倫理規制が強化されたとかに無関係に傑作が生まれているのと同じことである。未来など楽観視しない不安定な状況で、瞬間、瞬間に生起する「リアル」を見つめ、それを「フィクション」として定着させていく現場のひたすら現在を生きる運動こそが映画なのかもしれない。

 

ところで、映画のDVDが出回り始めた頃、少なくとも 20 年間は見ることを夢見続けていた、ジュージ・キューカー監督の『椿姫』(1936、Camille) の DVD をたった500 円で買ったとき、「消費者余剰」のあまりの大きさに満足するというよりも、いくらなんでも安すぎる、なんてもったいないことをするんだという悲しみの混じった怒りの方が先立ったことは忘れようがない。それ以来、資本主義なんて近視眼的な資源配分を加速させるシステムだという思いから抜け出せず今日に至っている。問題は、そのシステムがますます効率化する反面、その近視眼が酷くなることである 。