物語や思想に還元できない面白さ

日本のテレビ世帯普及率は、1957 年が 5.1 パーセント、58 年が 11 パーセント、59 年が 23.1 パーセントであり、いわゆる「キャズム(普及の谷間)」を超えるのは 1958 年頃である。実際、「一億総白痴化」が流行語になったのは 1957 年頃であった。映画館の年間入場者数は 1958 年の 11 億 3 千万人がピークであるが、映画製作本数、映画館数のピークは 1960 年であり 2 年ほど後にずれている。このことは、テレビの普及がすでにキャズムを超え、映画の年間入場者数が減り始めているにもかかわらず、映画産業側は未だに事態を乗り切れると信じ、供給過剰に陥ることで費用負担が深刻になり、みずからの崩壊を加速させたことを意味している。

 

以上は退屈な一般的事実の確認にすぎないが、その時期、作品が現場で「粗製乱造」されていたかというとそうではないと思う。60 年代を境にテレビへと移行していく「時代劇」をとりあげてみても、「座頭市シリーズ」「眠狂四郎シリーズ」、市川雷蔵の剣三部作『斬る』(1962), 『剣』(1964), 『剣鬼』(1965) や工藤栄一の『十三人の刺客』(1963)  などといった充実した作品を思い出して見れば、それらの作品は「プログラム・ピクチャー」の範疇におさまりがつかない魅力ある細部を有していると思う。そこで起きているのは、多分、作品の量産や納期短縮が求められ、企画面では過去のヒット作のシリーズ化やリメークが中心になることで、現場に創意工夫の中心が移り、作品のストーリーの意味や思想などといったものには還元できない「映画的」というしかない面白さが前面に出てくるということではないかと思っている。

 

もちろん、そのためには現場に優秀なスタッフがいなければならないが、生涯に 90 本程度の映画を監督した溝口健二がそのうちの 70 本ほどを撮影した大映京都撮影所をとりあげてみれば、そこは戦前からある日活の太秦撮影所の名称が変わっただけの由緒ある撮影所であり、その伝統に培われてきたスタッフの実力、技術があったからこそ、先行き不透明な中で、彼らの腕へ全てを委ねることができたのである。時代が経るにつれてますます世界中の映画ファンが惹きつけられているその「輝き」の正体が何であるかについては、じつは誰もよくはわかっておらず、その潜在性の開示は、これからの映画の未来にも関わっていると思う。

 

この時期の「映画的な」面白さとは、たとえば「眠狂四郎シリーズ」の中の傑作の一本というのみならず三隅研次監督の代表作である『眠狂四郎 無頼剣』(1966) の最後において、瓦が入り組んだ屋根の上で演じられる市川雷蔵天知茂の殺陣の充実しきったフォルムにあらわれている。夜空に半月が浮かび、彼方には江戸の空を焦がすように火の手があがっており、夜の光に屋根瓦が照らされ、抜かれた刀身に妖しいまでの光が反射している。複雑に敷かれた瓦の傾斜に踏みとどまる片足の短いクローズアップが適切に挿入され、「動」へと移行する直前の不動性を鮮やかに描き出している。倒れた天知茂の懐にあった色鮮やかな竹べらの玩具(子供に与えるために天知茂が作ったもの)がこぼれて瓦の傾斜に沿ってカラカラと滑り落ちていき、それを下で見守っている藤村志保が受け止めようと手をかざすその表情と身振りには、言いようのない感動を覚える。ラストの 眠狂四郎(市川雷蔵)のクロースアップが、火事の炎をうけて赤みを増していくのには、ただ胸を撃たれるしかない。これらの感動はみな、現場の仕事の見事さから来ている。

 

1966 年といえば、香港映画では、キン・フー監督が『大酔侠』を作った年である。中川信夫監督の『東海道四谷怪談』(1959) を撮影した西本正がキャメラを担当したこの作品は、とくに前半の酒場の一連のシーンで、最良のウェスタンを見ている感覚がするよい出来であった。当時 19 歳であった男装の麗人、チェン・ペイ・ペイの帽子や彼女の髪の毛が映画の中でアクションに活用されているのを見るのも楽しかった。撮影もよいし、照明もよいし (とくに夜のローキーの部分)、編集のアクションつなぎも今は失われたものだし、音楽もぴったりであった。酒場の空間が導入する入り組んだ視線劇に、チェン・ペイ・ペイの美しい静から動への舞踊としてのアクションが加わって本当に素晴らしいシーンに仕上がっており、これらは後の『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(1967, 龍門客桟) に受け継がれることになる。香港映画の隆盛に重要な役割を果たしたのも、新東宝から移籍した日本の優れた腕を持つキャメラ・マンであった。

 

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