あらゆるメディアは二度誕生する

「あらゆるメディアは二度誕生する」と、メディアを歴史というか「持続」の中の断層として捉えた蓮實重彦の仮説を「ビッグデータ」という空間的な拡がりをイメージさせる語を聞くときでさえ想起してしまう。

 

蓮實が言っている「第二の生誕」とは、メディアが複製技術の発明という第一の生を受けた後に、一度に大量の複製を生み出すシステムが確立し、社会がそれを制度的にあたかも「自然なこと」として受容する段階で生じるメディアの質的変化のことである。

 

複製技術が大量の複製を即時的に生み出す能力を政治的な権力が活用するというのは、もちろんドナルド・トランプTwitter が始めてではない。たとえば、この前読み直した『帝国の陰謀』にある1851年 12 月 2 日のルイ=ナポレオン・ボナパルトのクーデターは、19 世紀中頃の熱機関を利用した輪転機が一度に大量の印刷物を可能にする能力によって一夜のうちにパリの街頭に貼り出された大量の大統領の布告によって可能になったものである。

 

蓮實は、映画というメディアの「第二の生誕」の時期を米国のプレ・コード時代の終わり 1934 年頃と考えているが、この周辺の歴史的な出来事を見ると、アドルフ・ヒトラー内閣が成立したのは1933 年、1932 年にはファシスト革命記念展が行われ、独裁者ムッソリーニの神格化が進んだ。1934 年はキーロフの暗殺に始まるスターリンの大粛清によりスターリン主義が確立した時期である。溥儀が満州国の皇帝に即位したのは1934 年であり、満州映画協会が設立されたのは1937 年である。アメリカ合衆国では、フランクリン・ルーズベルトが1933 年に大統領に就任し、社会主義の計画経済を思わせるような「ニューディール政策」を進めることになるが、その政策によって保護された映画産業は急速に勢いを回復することになる。

 

問題は、その「第二の生誕」によってメディアにどんな質的変化が生じたかということであるが、視覚媒体の映画でいえば、それは「わかりやすく」なるということであった。もっと具体的に言えば、複雑な視覚的な表現は抑制され、メッセージレベルでは、誰にも理解可能な単純な物語に還元されるようになるということである。

 

「第二の生誕」を境に物語ではなく視覚効果を優先するような作品は消え去っていく。たとえば、すでに見たようなバスビー・バークレーの振付やジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929, Человек с киноаппаратом) のようなものに代表されるような視覚的効果はスクリーンから消え去っていく。

 

 

映画における「第二の生誕」とは、画面の視覚効果が禁欲され透明になっていき、そこに見られるのは、スターを中心にした民衆的な想像力とともに、話題として共有できるあたりさわりのない一般概念の意味での「イメージ」に過ぎなくなるということである。

 

しかし、いま述べたことは「わかりやすい」嘘であって、個々の優れた作品には「一般性」とは異なる具体的な生なしい何かが微妙ではあっても画面に存在している。それを見ることは困難であっても、確かに何かが存在しているのだ。

 

ニュートンのようにリンゴを見るんだ!
世界に眼を向けろ!
普通の犬をパヴロフの眼で見るために、
 映画を爆破しに、
 映画館へ行こう、
 映画を見るために。

 

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