一葉『十三夜』

一葉の『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』のヒロインは、よく知られているように、作品の中で「厭や」または「嫌」という。『にごりえ』の女主人公、お力はその名高い独白の中で、

 

あゝ嫌だ嫌だ嫌だ

 

という科白を二度も繰り返す。『たけくらべ』の美登利は、

 

ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事

 

という。この作品の『十三夜』のお関も

 

ゑゝ厭や厭や

 

と、鬼のような夫のもとへは絶対に戻りたくないという心境を独白している。


なかでも『十三夜』が特異なのは、男ですら「厭や」ということである。「上」「下」の二部構成でできている『十三夜』でお関が「厭や」というのは「上」の冒頭部分であり、車夫(くるまや)になった幼なじみの高坂録之助が同じ言葉をいうのは、「下」の冒頭部分で、お関に車から下りるよう告げるときである。

 

私からお願ひです何うぞお下りなすつて、最う引くのが厭やに成つたので御座りますと言ふに、夫ではお前加減でも惡るいか、まあ何うしたといふ譯、此處まで挽(ひ)いて來て厭やに成つたでは濟むまいがねと聲に力を入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もう何うでも厭やに成つたのですからとて提燈を持しまゝ不圖脇へのかれて

(以下略)

 

 このことから想像できるように、この小説では「上」におけるお関の役割を「下」においては高坂録之助が反復している側面がある。その「反復」は、「厭や」という発言を繰り返すことに留まらない。たとえば録之助はいまでは住む決まったところもなく、「浅草町」の「木賃泊り」「村田といふが二階」を仮の寝処(ねどころ)にしている。一方お関も普段、二階に住んでことを「上」でお関の母親が示唆している。

 

ほんに御門の前を通る事はありとも木綿着物に毛繻子の洋傘(かうもり)さした時には見す/\お二階の簾を見ながら、吁(あゝ)お關は何をして居る事かと思ひやるばかり行過ぎて仕舞まする、(以下略)

 

「上」で、お関がそのつらい結婚生活を両親に告げるように、「下」では、録之助が自分の悲惨な結婚生活をお関に告白する。「上」で、お関は父親から原田の家に戻るよう諭され両親と別れていくが、「下」では、録之助が今度はお関自身から諭されて、二人はそれぞれ違う方角へと別れていく。「上」では、お関の母親が別れ際にお関に車代を渡そうとするが「下」ではお関が録之助にお金を渡す。

 

このように細部をみていくと「上」と「下」は登場人物の役割を移し替えた物語の変奏となっている。つまり、『十三夜』では、かつて好意をよせあったお関と録之助という幼なじみの二人が、双方ともに結婚に破綻しているという内容面が統一されているだけではなく、「上」と「下」という語りの形式においても見事な対応が存在するのである。「上」で高級官僚、原田という夫の被害者であったお関は、「下」では間接的ではあるにせよ、録之助の妻と子に対して無意識の加害者となってしまっている。また、「上」で「家」をあくまで優先させる父親によって離婚を我慢させられるお関は、「下」では、高坂の録之助に対してちょうど父親のような振舞いを演じていると言えるかもしれない。その「上」「下」の反復形式は、お関を一方的にメロドラマのヒロインに仕立てあげることはしておらず、まるで「明治」という時代の救いがたさが感じられるようななにか普遍的なものが生み出されている印象すら受ける。

 

この小説の「下」に登場する高坂録之助が「車夫」であるということに対して、それをどう読もうと人の勝手なのだが、論評する人する人が「車夫」である意味を「社会的零落」という一般的「わかりやすさ」でしか捉えていないように思える。

 

そもそも、この小説の中で、ほとんど単に「車」と書かれる「人力車」は「上」「下」を通じてもっとも重要な主題となっていることは明らかである。「車」はすでに小説の冒頭からあらわれている。

 

いつもは威勢よき黒ぬりの、それ門に音が止まつた娘ではないかと兩親ふたおやに出迎はれつる物を、今宵は辻より飛のりのさへ歸して悄然しよんぼりと格子戸の外に立てば

 

ここで、「威勢よき黒ぬり車」の座席を「いつも」満たしているお関は、原田の妻であることを指していることは指摘するまでもなかろう。そもそも原田と結婚させられる契機となったのも、「白い羽根」が、原田の「車」に入ったことがきっかけである。

 

御隣の小娘(ちひさいの)と追羽根して、彼の娘の突いた白い羽根が通り掛つた原田さんのの中へ落たとつて、夫れをば阿關が貰ひに行きしに其時はじめて見たとか言つて人橋かけてやい/\と貰ひたがる

 

つまり、この小説では「車」が主題とされて反復されており、その主題は語りの側面では「男女の結びつき」に相関していることがわかる。

 

高坂録之助がお関を慕っており、それがかなえられなかったために世捨て人のような生活を送っていることは断言されていないものの、「下」のテクストの部分から充分すぎるほど窺えることである。高坂録之助にとって人力車の座席は、本来お関が坐ることでしか満たされず、他の客を乗せても決して満たされないものなのである。録之助が、車に客を乗せても途中で牽くのが「厭や」になるのは、「空所」を他の客で一時的に満たしてみても、結局は録之助にとって充実が得られないからである。

 

この小説のもっともすぐれた部分は、以下の引用のところにあると思う。

 

あれお前さんは彼のお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘(すべ)るやうに下りてつく/″\と打まもれば、貴孃(あなた)は齋藤の阿關さん(以下略)

 

いま録之助の車に客として乗ってる人物こそが、あの「お関」だと同定された瞬間、お関はすでに車から下りてしまっているのだ。その後「お関」は二度と録之助の車に乗ることはないだろう。なんたる悲劇性!この稲妻のような鋭さこそが一葉の作品なんだと思ってしまう。

 

樋口一葉 十三夜

 

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