英語の勘所 (2)

英語の文章を読むときに頭から読む訓練をしなさいということが言われるが、具体的には英語の複文を動詞が出現する順序をなるべく崩さずに読むことかなあ。

 

日本語だと、動詞の連体形 (名詞にかかるときの動詞の活用)でほとんどどんな名詞でも修飾できてしてしまう。英語を日本語に訳すときには、この日本語の連体修飾の柔軟性は利用できる。

 

I was reading a book which my father gave me yesterday.


私が読んでいた本は、父が昨日くれた。

 

 

For example, crows carry shellfish into the sky and drop them on the road to break the shell.


たとえば、カラスが運ぶ貝は空に至り、道へ落とされ、殻が割れる。

 

This train will be stopping at Machida station before arriving at Shinjuku.


この電車は町田駅に停車してから新宿に到着する予定です。

単文の範囲では、日本語と英語の語順が一致するはずはないが、複文の流れの順序を日本語と英語で変えないようにすることはある程度できる。文法というのは、結局「文」に適用されるものだが、日本語と英語ではそれは全く違う。しかし、文が複数になったテクストのレベルでは受け取られるべき意味はたいして違わないし、複数の文をどうつないでいくかに関して明確な決まりがあるわけではなかろう。動詞の出現順序をなるべくあわせるというのもひとつのやり方にすぎない。やってみると、どうしても動詞の順番を変えないと日本語が不自然になるところが出てきてしまうことがわかる。しかし、僕にとっては、動詞が出てくる順序が変わるのは映画でいえばショットの順番を入れ替えて映画を見せられる気がするので、なるべく動詞の出現順序を保存することにしている。

 

 

例を出すために、"The Great Gatsby" の有名な冒頭を訳してみた。 訳が下手なのは許して欲しい。

 

In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I've been turning over in my mind ever since.

僕がもっと若く傷つきやすかった頃、父が僕にした助言を心の中でずっとためつすがめつ考えてきた。

 

“Whenever you feel like criticizing any one,” he told me,“just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you’ve had.”

「いつもだれかを批判したくなったら」父は僕にいった。「ちょっと思い出すべきなのは、世間が持っていなかった長所をおまえは持っていたってことだ」

 

He didn’t say any more, but we’ve always been unusually communicative in a reserved way, and I understood that he meant a great deal more than that.

父はそれ以上言わなかったけれど、僕と父のやりとりは普段から普通とは違う控え目なものだったので、了解できたのは、そこにたくさんの意味をこめているということだった。

 

In consequence, I’m inclined to reserve all judgments, a habit that has opened up many curious natures to me and also made me the victim of not a few veteran bores.

その結果、僕はあらゆる判断を控えるようになり、その習慣のせいで多くの興味ある人たちが僕に関心を寄せてくれるようにもなったし、うんざりする退屈な人たちから悩まされることも少なからずあった。

 

The abnormal mind is quick to detect and attach itself to this quality when it appears in a normal person,and so it came about that in college I was unjustly accused of being a politician, because I was privy to the secret griefs of wild, unknown men.

人と変わった心の持ち主がすぐに察知して近づきたがるのは、この性質がありふれた人にあらわれるときで、その結果、大学で僕が思いもかけない非難をあびるようになったのは、「あいつはなかなかの策士だ」ということだった。というのも、僕が得体の知れない者が隠しもっている悲嘆に内々で通じていたからだった。

 

Most of the confidences were unsought ― frequently I have feigned sleep, preoccupation, or a hostile levity when I realized by some unmistakable sign that an intimate revelation was quivering on the horizon; for the intimate revelations of young men, or at least the terms in which they express them, are usually plagiaristic and marred by obvious suppressions.

ほとんどの秘密はこちらから求めたものではなかった――しばしば僕が寝たふりをしたり、ほかに心をとられたふりをしたり、敵意のあるよそよそしいふりをしたのは、間違えようもない兆しによって朝の光が地平線で震えているかのような親密な告白に気がついたときだった。若者の親密な告白、少なくともそれを表現する言葉は、普通、他人の言葉に託されていたり、明らかな抑圧で歪められたりしている。

 

Reserving judgments is a matter of infinite hope.

判断を控えるということは、限りない希望を持ちつづけることだ。

 

I am still a little afraid of missing something if I forget that, as my father snobbishly suggested, and I snobbishly repeat, a sense of the fundamental decencies is parcelled out unequally at birth.

僕がいまだに何かを失ったように少し心配になるのは、父が俗物のように示し僕が俗物のように繰りかえしていることを忘れたときで、それは、ある意味の根本的な品位というものは、生まれつき等しく分け与えられていないということだ。

 

And, after boasting this way of my tolerance, I come to the admission that it has a limit.

こんな風に自分の寛容さを吹聴したあとで、認めなければいけないのは、それにも限度があるということだ。

 

Conduct may be founded on the hard rock or the wet marshes, but after a certain point I don’t care what it’s founded on.

人のおこないは、堅い岩のような意志にもとづくものであれ、湿った沼地のような意志にもとづくものであれ、ある点をこえてしまうとどうでもよくなるのは、それが何にもとづいているかということだ。

 

When I came back from the East last autumn I felt that I wanted the world to be in uniform and at a sort of moral attention forever; I wanted no more riotous excursions with privileged glimpses into the human heart.

東部から去年の秋に戻ってきたとき僕が感じたのは、世間がお仕着せを着て、ある種の道徳的関心を永遠に持ちつづけていて欲しいということだった。僕がもはや欲しなかったのは、騒々しく遠くへ出かけて人の心の中を特権的に覗きこむということだった。

 

Only Gatsby, the man who gives his name to this book, was exempt from my reaction ― Gatsby, who represented everything for which I have an unaffected scorn.

 ただギャツビーだけが、この本に自分の名前を提供している男だけが、僕の反応の例外だった―― ギャツビー、彼が体現したあらゆるものに対して僕は変わることのない軽蔑をもっている。

 

If personality is an unbroken series of successful gestures,then there was something gorgeous about him, some heightened sensitivity to the promises of life, as if he were related to one of those intricate machines that register earthquakes ten thousand miles away.

人格というものがひと続きの分けることができない成功した身振りのようなものだとすると、その者にはなにか華麗なところがあった。その人生の期待へ向けられた高められた感受性というべきものは、一万マイル離れた地震を記録するあの複雑な機械に比するべきものであった。

 

This responsiveness had nothing to do with that flabby impressionability which is dignified under the name of the “creative temperament.”― it was an extraordinary gift for hope, a romantic readiness such as I have never found in any other person and which it is not likely I shall ever find again.

この反応の高さは、「創造的気質」という名前で権威づけられているあの弱々しい印象とは無関係だ―― それは天与の才であって、希望を持ちつづけ、ロマンチックなものに進んで身を捧げるといったもので、そのようなものを僕は他の人には決して見出したことはなかったし、恐らくこれからも二度と見い出すことはないだろう。

 

No ― Gatsby turned out all right at the end; it is what preyed on Gatsby,what foul dust floated in the wake of his dreams that temporarily closed out my interest in the abortive sorrows and short-winded elations of men.

否 ―― ギャツビーは、最終的にはすべて正しかったのだ。ギャツビーを食いものにしたものたち、彼の夢の軌跡に漂う汚らしい塵芥(ちりあくた)がしばらくの間僕に失わせてしまった関心は、不成功に終わった人の悲哀、短く終わった人の高揚感であった。