追記

昨日の "These Foolish Things" の歌詞は、『上海特急』にも出演している Anna May Wong をモデルにして書かれたという記事を読んで吃驚した。

 

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ところで、ジル・ドゥルーズの「何を構造主義として認めるか」にある、

 

零度なくして構造主義はない。

 

という極度に短い文章に目を惹かれたことがある。つまり「構造主義」が構造を語るという物語だとすれば、その物語を語るためには「零度」が必須であると言っているのだが、そこでは「零度」は「対象 = X」とも言い換えられている。これは、"These Foolish Things" の状況のようなことだというのが「わかりやすい」が嘘の説明である。「あなた」は「私」にとって「欠如」である。しかし、「欠如」は一般性の領域での表現にすぎない。「私」にとって「あなた」は「出来事」である。「私」の頭の中にある「あなた」は、いま具体的に指すべき特定の位置を持たない「浮遊するシニフィアン」となっていて、ありとあらゆる状況が「あなた」を指し示すことになる。その「過剰なるシニフィアン」は「あなた」の意味を「私」に突きつける。そういった「浮遊するシニフィアン」があらゆる状況に乗り移りながら不在の「あなた」を指し示すという運動が、「私」と「私を取り巻く世界」の構造の物語を生成するのである。

 

他の例をあげると梶井基次郎の『檸檬』では、「えたいの知れない不吉な塊」が明らかにこの小説に導入された「零度」である。その記号の意味ははっきりと与えられておらず欠落したままである。そして、ありとあらゆる状況が「私」にそれを指し示す。つまり、シニフィアンの方は過剰なのである。そして、そのパラドキシカルな状況が、「私」をノマドのように京都の平面を彷徨させるという運動を導入することになる。そして、その「零度」である「不吉な塊」に「檸檬」を当てはめるという荒唐無稽でパラドキシカルな関係性が構築されると「不吉な塊=檸檬」は爆発することになるのである。

 

これくらいの「わかりやすい」例はいくらでもあげることができるのであって「零度」なんて言ってしまうとなんでも説明できる気がしてしまうところが実に良くないと思う。


他の例としては、「零度」が動きまわることがなくなり固定されてしまうと「退屈」で、しばしば人を苦しめるものにさえなることが「わかりやすく」言えてしまう。退屈な遠近法絵画の「消失点」を取り上げてみる。「消失点」は、現実には存在していないという意味では空虚なものでありながら、絵画のすべての要素が消失点を指し示すという過剰さを持つパラドキシカルな存在である。そのパラドキシカルな側面は、現実に存在していない虚構の点でありながら、絵画の平面の中には実際に固定され退屈な静的構造を形成している。

 

他にもいくらでも例を思いつく。たとえば、人が映画を見て「リアル」だというのを聞くとき、いつも退屈さを感じて、疲労感さえ覚えてしまうのは、無限とも言えるほど細部を有している映画の画面の多様で運動し続ける関係性を、一般性の領域のもっとも粗雑な区分である「真=偽」の「真」を消失点として、多様な表現がすべてそこに向けられていると語っているからである。ありもしない「真」という抽象性の王様のような動かないものを仮定し、現実の活き活きとした細部がすべてそれに従っているとみなすことが退屈きわまりないのである。

 

他にもいえる。たとえば、生物学的性差を固定し、それ以外の領域に拡張してしまうことがジェンダーの問題に繋がっているのは、すでにいろいろ言われていることであるが、一つ言うべきことは、男が上になって、女性が下になる性行為を「正常位」と呼ぶのはどうかと思う。対等に接吻しあう関係性から始まって、いくらでも多様な関係性が存在する行為の中で、「正常位」を零度として固定し、そこにすべての行為を向けることを目的とするのが男女の恋愛とはとても思えないだろう。