プレコード時代

このブログでは「プレコード」という言葉を周知のものとして使用しているが、一応断っておくことにした。

1930 年の合衆国国勢調査によると、当時の米国の人口は、現在の日本の人口とほぼ同じ 1 億 2 千 8 百万人である。当時の映画館の「週」あたりの入場者数は、公称値で約 1 億 1 千 5 百万人であった。当時の映画館には年齢制限は存在しておらず、子供でも大人と同じ映画を見ることが可能な時代であった。

 

1930 年、メジャー映画会社は、主としてカトリック教会からの執拗な申し出に応じた形で、映画協会として自主倫理規定を作成する。その正式名称は、"Code to Govern the Making of Talking, Synchronized and Silent Motion Pictures” だが、一般には「プロダクション・コード」または、当時の映画協会の会長の名前 、ウィル・ヘイズからとって「ヘイズ・コード」と呼ぶ。趣旨は、日本の「映画倫理規程」と同様のものである。しかし、初期にはこのコードは実際には厳密に運用されておらず、厳格に施行されるようになるのは、1934年からである。ハリウッド映画に関してよく使う「プレコード」"Pre-Code" という言葉は、映画の倫理規制が社会問題化し始めた 1929 年から、「ヘイズ・コード」が厳密施行されるようになる 1934 年 7 月までの 5年ぐらいの期間を指す。たとえば、エルンスト・ルビッチ監督の『極楽特急』(1932, Trouble in Paradise) は、この「プレコード」の時期の作品ということになる。同じルビッチ監督の『メリー・ウィドウ』(1934, Marry Widow)は、1934年10月にニューヨークで、プレミア上映が行われているので、丁度、境界にあたる作品である。

 

パラマウント社は、プレコード時代の 1933 年に財政難から破産宣告し、経営難で自社の専属スターへの出演料の支払いにも困っていた。そこでなり振り構わず、自主規制を無視したような路線の映画をたくさん作っている。しかし、結果として、これがヘイズ・コードの厳密実施を早めたともいえる。

 

この時期、パラマウント社が抱えていた女優の一人にメイ・ウェストがいる。彼女は、1933 年にパラマウントの『わたしは別よ』で初主演し、ケーリー・グラントと共演している。この俗悪路線は大ヒットし、パラマウントの財政黒字化の最大の要因となる。彼女の写真を見てみるとわかるが、正直、美人でもなんでもないし、美しい肢体をもっていた訳でもない。年齢だって、生まれたのは 1893 年だから、映画出演時はもう40歳に手が届こうとしていた。彼女に人気が出たのは、男性を手玉にとる大胆な演技とその性的ジョークからである。ハンサムな若い男を見るとかならず彼女が口にする台詞、

 

Why don't you come up and see me sometime?

 

は、その年の流行語大賞のようなものとなっている。フィッツジェラルドの短編 "Lo, the poor peacock!" (1935) には、年端もいかない女の子がメイ・ウェストの真似をしている様子が描写されている。

 

Passing through the pantry he took a slant-eyed glance at the little girls still in masquerade, realizing that presently he would have to deflate one balloon of imagination. The child who was playing Mae West—to the extent of saying 'Come up and see me sometime'— admitted that she had never been permitted to see Mae West on the screen; she had been promised that privilege when she was fourteen.

 

アルフレッド・ヒッチコック監督のイギリス時代の作品『三九夜』(The 39 Steps) は1935年の作品である。この作品にもメイ・ウェストの名前が出てくるのだが、それを覚えているのは日本語字幕に「マエ・ウェスト」とあって最初は意味不明でポカンとしてしまったからだが、メイ・ウェストは当時の英国においてすら有名だったことがわかる。カトリック教会が、実際にヘイズ・コードの厳密実施を強く訴えることに踏み切った直接の引き金は、『わたしは別よ』と 同年 (1933年) のメイ・ウェストの主演作『妾は天使じゃない』と言われている。

 

1934年のヘイズ・コード厳密実施は、ハリウッドの作品に大きな影響を与える――アニメーションですら、ベティ・ブープのスカートの丈が膝下になったのはすでに書いた。

 

なお、このハリウッド・プレコードの時期の日本の動きを押さえておくと、1931 年には満州事変、1932 年には 5・15事件、1933 年には国際連盟を脱退して国際的に孤立するといった時期である。日本映画は、1931 年の『マダムと女房』で完全トーキー化が始まっている。松竹が大船撮影所を作り、小津安二郎が初めてトーキーを撮るのは 1936 年だからまだまだ先である。小津は、この時期、1931年に『東京の合唱』、1932年に『生まれてはみたけれど』、1933年に『非常線の女』『出来ごころ』などの傑作をたて続けに撮っている。