ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

『脱出』のことなど

2014 年の 8 月に 、ローレン・バコールが89 歳でお亡くなりになったときのニューヨーク・タイムズの追悼記事はその後も何度か読んだが、その記事では、彼女の映画デビュー作となった『脱出』のこともよく触れられていると思う。ネルソン・マンデラは言うに及ばず、鈴木清順の死亡記事ですら、いまや、海外メディアで読む時代なのだ。


1944年、ローレン・バコールはハワード・ホークス監督の『脱出 』(To Have and Have Not, 1944) で映画デビューする。『脱出』は『カサブランカ』(1942) の醜悪さを全面的に作り直したような映画である。二人のノーベル賞作家、ヘミングウェイ(原作)とフォークナー(脚本)が作品のクレジット・タイトルにあるが、実際はヘミングウェイの原作はほんの一部しか使われていないし、フォークナーは最終的な脚本にはほとんど関与していないと言われている。

NYタイムズの記事が述べているようにローレン・バコールがこの映画をさらっていることはだれにも間違いようあるまい。

その記事では、彼女の魅力的な声を批評家の言葉を借りながら「ほのめかすような(insinuating)」「性的に人を惹きつける (seductive)」「喉から出すような (throaty)」「ジャングルでの繁殖期の求愛鳴き(jungle mating call)」と喩えている。

ローレン・バコールが『脱出』で最初に登場する瞬間は忘れ難いが、蓮實重彥は『映像の詩学』で、このシーンの簡潔で「わかりやすさ」のあまり「透明」にさえなってしまったマッチの往復運動の「わかりにくい」というか「見えなくなってしまう」魅力について、その「透明さ」からは最も遠ざかるような、うねうねとした筆致でこう書いている。

ローレン・バコールは、長い部屋着のままで音もなくボガードの部屋の扉をすりぬけ、壁に背をもたせて誰にいうともなくつぶやく。「どなたか、火をお持ちではないかしら」。このほとんど命令に近い言葉を、バコールは相手の顔を正面からのぞきこむことなしにいう。ボガードもボガードで、その台詞を聞きとどけたという身振りも示さず、もの憂げな瞳を宙に漂わせたままポケットのライターをテーブル越しに放りなげる。それを胸もとでうけとめる女は、くわえていた煙草に火をつけ、感謝の微笑をも浮かべずに同じ素気なさでライターを男に投げ返すばかりだ。その間、画面は、あのホークス的な目の高さに固定されたままクローズ・アップも切り返しショットもなくやや離れた距離から二人を捉え続けたままだ。ボガードは何やら迷惑そうな表情だし、バコールも媚を売ったりはいささかもしない。それが途方もなく美しいのは、このライターのぶっきら棒な往復運動が、二人の登場人物によってまるでなかったように忘れ去られてしまうからだ。あるいはライターではなくマッチ箱だったかもしれないが、というよりいまやマッチ箱であったという確信の方が遙かに強いのだが、とにかくこの喫煙具はヒチコックにおけるがごとき濃密な説話機能を担ってはおらず、ひたすら無償の運動を生きるばかりだ。

彼女は、自伝 “By Myself” (『私一人』山田宏一訳)でこのシーンの逸話をこう語っている。

My hand was shaking, my head was shaking, the cigarette was shaking, I was mortified. The harder I tried to stop, the more I shook. ... I realized that one way to hold my trembling head still was to keep it down, chin low, almost to my chest, and eyes up at Bogart. It worked and turned out to be the beginning of The Look.

彼女の愛称  “The Look” が由来する独特の上目づかいは、このシーンで生まれたのである。

この映画で、バコールはボガードにいきなり接吻するのだが、そのときの「口笛」の台詞は記事でも紹介している。

You know you don’t have to act with me, Steve. You don’t have to say anything, and you don’t have to do anything. Not a thing. Oh, maybe just whistle. You know how to whistle, don’t you, Steve? You just put your lips together and blow.

この映画のもう一つの見どころは、もちろんホーギー・カーマイケルが出演していることであり、同じホークスの『教授と美女』(1941) での名高いジーン・クルーパのパフォーマンスとともに忘れ難いものだ。『スターダスト』『我が心のジョージア』で知られる作曲者は、この映画で本当にいい味を出してくれている。この映画の良さとは『カサブランカ』などとは違って、一見すると「わかりやすい」画面に存在する「わかりにくい」魅力にあるのだ。

最後にこの記事を、ホーギー・カーマイケル自身のピアノによる『スター・ダスト』の紹介で終える。

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映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

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私一人

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