ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

ベティ・ブープにまつわること

1928 年というプレコード時代の直前の時期、『キートンの蒸氣船』(1928) の 5 月公開から半年ほど遅れて、ウォルト・ディズニーの『蒸氣船ウイリー』(Steamboat Willie, 1928) という、一般によく知られることになる鼠のキャラクターが主人公の短編アニメーションが公開された。プレコード時代は、トーキーの本格導入の時期とも重なる。その初期において映像と音がシンクロナイゼーションするということは自明なことではなく、そのこと自体が驚きを生産するものであったということがこの作品を見るとわかる。作者であるディズニーは明らかにそのことに未来を賭けている。たとえば、「ミッキー」と識別してしまえばわかった気になってしまうそのキャラクターが口笛を吹くシーンのほっぺたの二本の線の開いたり狭まったりする動きや、漫画にみられる笑っているときに表れる動作を表現する線や、口の強調などは、音楽と同調しているのである。

アニメーションのトーキー化はディズニーだけでなく、たとえばフライシャー兄弟 (マックスとデイブ) らによっても行われていた。「ビン坊」「ベティ・ブープ」「ポパイ」などの作品がそうである。特に「ベティ・ブープ」物はフライシャー・スタジオの稼ぎ頭であった。なお、映画史の復習に過ぎないが、フライシャー兄弟のマックスの方の子供が『絞殺魔』(1968),『ミクロの決死圏』(1966), 『スパイクス・ギャング』(1974), 『マンディゴ』(1975) を監督したリチャード・フライシャーである。

島津保次郎監督の松竹蒲田映画『隣の八重ちやん』(1934) には逢初 (あいぞめ)夢子、岡田嘉子、大日方傳たちが帝劇に映画を見に行くと、そこで「ベティ・ブープ」のアニメーションをやっているシーンがある。なぜ、帝劇に映画を見に行き、そこで「ベティ・ブープ」をやっているのか、現代からみると少し違和感がある。

松竹とパラマウント日本支社は、1931 年 5 月に合併して松竹パ社興業社となった。当時、日本の映画産業の首位争いをしていたのは、松竹と日活であったのである。松竹は『マダムと女房』(1931) で本格的なトーキーの導入を始めたが、その方式は『隣の八重ちやん』でも使われている土橋兄弟が開発した国産の録音機を活用したものである。松竹はいち早く導入したトーキーを活用してシェアをあげ、トーキー導入にともない弁士が不要となる劇場の変化が経営に影響することは当然予想していただろう。一方、字幕スーパーの方式を最初に導入したのはパラマウント社で、最初の作品はジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『モロツコ』(1930, 日本公開 1931) であった。

帝国劇場は、昭和初期の不況の煽りを受けて経営不振となり、松竹が 1930 年から 10 年間にわたり劇場を貸借することになる。帝国劇場が洋画専門の封切り館になったのは 1931 年 11 月のことで、お披露目作品はパラマウント作品であるスタンバーグ監督の『アメリカの悲劇』(1931) とエルンスト・ルビッチ監督の『陽氣な中尉さん』(1931) であった。松竹と合弁したパラマウントは、フライッシャー兄弟の作品を配給しており、したがって、その作品が帝国劇場で上映されていてもなんら不思議ではない。松竹蒲田の城戸所長は、国産初のトーキーアニメ製作の契約を 1932 年に政岡憲三と結んでおり、松竹はトーキーをアニメーションにも活用するという戦略を持っていた。確かに初期のトーキー技術だと、アニメーションで使う方がより活用しやすいし、事業として計算しやすかった面もあったのだろう。

『隣の八重ちやん』で見ているベティ・ブープは、まだ服がセクシーだから、これはプレ・コード時代のものであることがすぐわかる。『隣の八重ちやん』が公開された 1934 年のヘイズ・コード厳密実施は、ハリウッドの作品に大きな影響を与えたが、ベティ・ブーブの場合も、ワンピースの胸元が覆われ半袖になり、おまけに膝下の丈になった。フライシャー兄弟の稼ぎ頭であった「ベティ・ブープ」物は 1934 年のヘイズ法の本格適用を受けて米国ではすでに大打撃を受け始めているのである。なお、日本の映画館で男女別々の席という規制が完全に撤廃されたのは、1931 年のことである。

ベティ・ブープがデビューしたのは、1930 年である。頭はフレンチ・プードルがモデルであり、一度聞いたら忘れられないあの奇妙な声はヘレン・ケインがモデルといわれる。

I Wanna Be Loved by You (1928):

ここで歌っている彼女の代表曲は、マリリン・モンローのカバーであれば誰もが聞いたことがあると思う。

日本には、「ニツポン・ベテイ・ブープ」という少女歌手がいた。わかっているのは、コロムビアから 1934 年にデビューし、デビュー曲のタイトルは「ないしよばなし」であること、本名は Alyce Hamada であること、レコードになったのは、デビュー曲を含めて 2 枚 4 曲であることぐらいである。姉妹の歌手でリラ・ハマダ、ニナ・ハマダもいたので、彼女たちのお姉さんだったのかもしれないとも言われている。二人の姉妹 (リラ/ニナ) は和服姿でチャールストンを巧みに踊ったとある。

ないしよばなし:


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逢初夢子(左)、高杉早苗(右)

 

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