クリスマス・ソングの続き。
Woody Herman
新聞にまたくだらないことが書いてあると思いながら、若者の最近の消費性向に関する論評を何気なく読んでしまった。美術館にオリジナルの絵を見に行くのは、大量に出回っているコピーでその絵を「知っている」と思いこんでいる人間が、オリジナルもまたコピーに似ていることを確認して安心するためにすぎない。ライブが流行するのは、どこで本当に感動していいかを周囲の反応から指示される必要があるからだ。いまやみんなと繋がってそこで共有される「物語」が購買させるモノを規定するのであり、その逆ではないということがより徹底して起こっている。要するに繋がって共有された物語にもとづいてしか、リアルなモノは見えもせず、聞こえもしないという倒錯が歴史的に進行しているという退屈な事実の確認である。自分が何を食べたかすらが、共有されたわかりやすい物語による上気した承認を受けなければ決定されない時代の本格的到来。
クリスマス・ソングの続き。
Gene Autry
歌うカウボーイと言われたジーン・オートリーだが、“Rudolph, the Red-Nosed Reindeer” を1949 年にミリオン・ヒットさせている。
ついでなので、久しぶりに “South of the Border” を聴く。
1935 年の Santa Clause Is Comin’ to Town
この曲は1934 年にできたものだから、トミー・ドーシー楽団の 1935 年の録音はかなり初期のものである。曲のオープニング・ヴァースがまだ残っており、後は AABA のティン・パン・アレイでよく用いられた形式である。
レコードの B 面はベニー・グッドマン楽団であった。
“Santa Clause Is Comin’ to Town” は、もともとエディー・カンターがラジオで歌って大ヒットさせたものである。
トニー 谷
原理主義者であることはとうに辞めてしまったので、「破壊的イノベーション」なんてもうどうでもよいのだが、それでも既存の業界を震撼させるイノベーションのことをなんでもかんでも「破壊的イノベーション」と、人智を超えた預言者を気取る輩達が呼ぶ風潮にはいささかウンザリしており、クリステンセンの文章をつい読んでしまった。
What Is Disruptive Innovation?
感想は特にないが、オイディプス神話で、オイディプスが父親殺しを遂げるまでの成長に要する時間を辺境の地で目立たず過ごしたという物語的類型を想像してしまった。
クリスマス・ソングはこれ。
イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)
- 作者: クレイトン・クリステンセン,玉田俊平太,伊豆原弓
- 出版社/メーカー: 翔泳社
- 発売日: 2011/12/20
- メディア: 単行本
- 購入: 59人 クリック: 811回
- この商品を含むブログ (397件) を見る
A Christmas Twist
YouTube のホームでリコメンドしてくる動画は、こちらの過去の閲覧履歴を参照しているせいか 1950 年以前のものばかりしかない上に、こちらが驚くような思いがけない動画がなく見たことがあるものばかりで、「過学習」ではないかと感じていた。しかし、今日リコメンドしてきた下の動画は意外性があった。どうして好みを突き止めたのか、お見それした。
No Other Love
トッド・ヘインズ監督の『キャロル』(Carol, 2015) は、ここ数年で作られた映画の中でお気に入りの一本。決して、偉大な映画などではないが、かといって世の中に掃いて捨てるほどある、偉大であろうとしながらそれになりそびれた映画でもない。キャロル (ケイト・ブランシェット) が夫に「わたしたちは醜くくないはずよ」と告げるように、『キャロル』はただ映画として美しくあろうとしており、じっさい最近のアメリカ映画の中では僥倖のように美しい作品たりえている。トッド・ヘインズの美しさは、偉大であることよりも美しくあるために透明な演出を目指したジョージ・キューカー監督や、美しさのために蔑視に耐えねばならなかったダグラス・サーク監督の演出のようである。1934 年のヘイズ・コード施行の前後では、細部において同性愛をほのめかす描写が存在する作品が、女性が男性の役割をするという形態がほとんどであったとはいえ存在していた。たとえば、マレーネ・デートリッヒの『モロッコ』(1930) や、グレタ・ガルボの『クリスチナ女王』(1933) や、キャサリン・ヘップバーンの『男装』(1935) などを示すことができる。その当時は映画館に通う客の主体は女性であり、彼女たちにとって映画館は普段とは違う特別なお洒落をして出かける特別な場所であった。トッド・ヘインズのこの映画は、このスタジオ・システム確立以前の映画のことを思い出させてくれる。
50 年代のデバートのおもちゃ売場の再現。骰子一擲のキャロルとテレーズ(ルーニ・マーラ)の出会いの一瞬。偶然、顔さえ知らない他者に突然、否応もなく惹かれ、適切にそれを表現する言葉すら見つからず、ただ自分の胸の中で反復して肯定することしかできなくなること。その比較を欠いた「絶対」というべき出来事をこの映画は視線劇によって見事に表現している。テレーズがキャロルをカメラで撮影するとき、「視線」の代替としてのその光学機械までが、優しいシャッター音をたてている。
視線劇の構図・逆構図といっても、古典的デクバージュではなく、前景に人物を入れて撮影する、いわゆるナメる撮影が多い。ジャン・リュック・ゴダールが「古典的デクパージュの擁護と顕揚」で触れているように、こうしたナメの撮影は、前景の後ろ姿の人物の秘密を観客に「ほのめかす」役割が存在している。そして、後ろ姿を映すということは、まずその人物を振り向かせることによって映画に運動を導入するものであるが、この映画では、さらに後ろ姿の人物の肩に他の人間が手を触れることが効果を上げている。実際、キャロルはテレーズの肩に数度手で触れるし、テレーズも自分の部屋に訪れ、後ろ姿で泣いているキャロルの肩に手を触れる。フルショットでの後ろ姿は、キャロルを演じるケイト・ブランシェットのものが多いが、テレーズ (ルーニー・マーラ) がパーティを抜け出してキャロルの元へ向かっていくとき、ジョー・スタッフォードの “No Other Love” がバックに流れ、テレーズを一瞬だけルドルフ・マテばりに仰角で示すショットがあり、このあとテレーズの後姿がフルショットで映されるところはハッとする。その後のキャロルとの再会のシーンのスローモーションはサービス・ショットというべきものにすぎない。
5つの銅貨
レッド・ニコルズのことを書いたので、メルビル・シェイブルソン監督の『5つの銅貨』(The Five Pennies, 1959) を久しぶりにみた。この映画、ヴィスタ・サイズだったんだ。
南里文雄がこの主題歌を演奏しているものがある。
Ida! Sweet as Apple Cider
ディック・ミネに 『アイダ』というタイトルをもつレコーディングがある。レコーディングは 1936 年の 11 月になっている。
もちろん、この二年前の 1934 年に、ミネが同じ女性名をタイトルに持つ『ダイナ』をヒットさせたことは周知の通りであるが、杉原泰蔵のアレンジはなかなかのものではないだろうか。
この曲はもともとアル・ジョルスンやエディ・カンターの先達にあたり、ミンストレル・ショーの歌手であったエディ・レオナードが 1903 年に作曲したものである。そのエディ・レオナード自身が歌っている音源が残っている(録音時期は不明)。
※ 動画削除
1927 年のレッド・ニコルズとファイヴ・ペニーズの録音の紹介は落とせない。
いろいろなカバーが存在するがベニー・グッドマンのレコーディングは 1937 年でミネのレコーディングよりも後である。
ドレミファ娘の血は騒ぐ
黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985) をものすごく久しぶりに見返していた。なぜ見返したかというと、この前インドに行ってガンジス川を渡ったとき川を渡る映画をいろいろ思い出していたら、その一本として『神田川淫乱戦争』(1983) が出てきたのだけれども、『神田川淫乱戦争』は DVD を持っていないのでこの作品にした。蓮實さんが『監督小津安二郎』を最初に出版したのは 1983 年のことで、その増補決定版の文庫本を帰りの飛行機で読んだことも間接的影響があったかもしれない。周防正行監督の『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984) が小津作品の引用に終始していたのは周知の通りだが、この作品でもいきなり冒頭に「12 月 12 日は投票日」と出てきたり「サセレシア」のメロディーが流れているのだ。
ゼミを通じて友人が多くいた池袋にある大学や洞口依子は懐かしいが、そんな懐かしさとは無縁に、今見ても新鮮な映画であり、黒沢清はやっぱりうまいなあと随所に見られるショットの冴えに感動した。洞口依子の怒ったシーンなんか今ではもうやらないだろうけど『キャット・ピープル』(1942) のように照明だけで演出する若さいっぱいで単純におかしい。
もちろん最新作の『散歩する侵略者』(2017) も楽しんで見た。音楽は、『ドレミファ娘』の中で歌われている淡谷のり子の『ルムバ・タンバ』(1939)。