シネマ・アンシャンテ

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遅ればせながら手に入れる。久しぶりに感じる「本」を所有するフェティシュな喜び! 撫でまわして手触りを感じるのはもちろん、匂いまでクンクンしてみる。数多く掲載されている写真も溜息の出るものばかりだし、レイアウトも良いし、写真のキャプションも必要最低限で写真そのものを見ることに邪魔してない。写真だけでもいろいろな発見があって楽しい。たとえば、1967 年の『ロシュフォールの恋人たち』の日本語のチラシには共同配給が東和とタイヘイフィルムと出ている。タイヘイフィルム!調べてみると 1966 年創業で 1968 年活動停止になっている。そのチラシの下には次回作が市川崑監督の『トッポ・ジージョのボタン戦争』とある。トッポ・ジージョ!音楽は中村八大じゃないか!

 

 

時間が無限に過ぎていくなあ……

 

ジャック・ドゥミはお亡くなりになられたが、来日公演がまもなく予定されているミシェル・ルグランは 86 歳になるけどまだお元気である。ドゥミの映画を始めて見たのは学生時代で、日仏学院で上映した『シェルブールの雨傘』だった。二人が初めてコンビを組んだ『ローラ』は大好きな作品であるが、「それがあたし、ローラよ」のところは曲なしで撮影したとこの本に書いてあってビックリした。

 

 

 

 

 

英語の勘所 (7)

少しでもやる気のあるうちになるべく書くことにする。

 

20 世紀前半の音楽を聞いたり、映画を見たりすることにたいして、「好きだから」以外の回答として、その時代の作品を「過去形」として捉えてはならず「現在完了形」として捉えねばならないからだというのがあり得る一つの回答だが、よく考えてみると現在は消費するもので、消費が終わったものは「過去形」なのだと考えているとしか思えない「大衆消費社会」でそんなことを言っても通じるはずがないとも思う。

 

過去形は過去の出来事を「過去」に閉じ込めるものである。そのために「過去形」ではいつも聞き手がその出来事が過去のいつのことであることの存在証明を確認することを求められる。たとえば、

 

John met a woman at the party last week. Her name was Linda. 

 

において、過去の特定の時間を明示した ”last week” が一番目の文の最後にある。二番目の文中には過去の特定の時間は明示されていないが、その場合は周囲を検索して過去であることの存在証明を発見できる必要がある。この場合はすぐ前に “last week” が存在している。過去形はあくまで過去のことで現在とはなにも繋がりがないので、二番目の文、 

 

Her name was Linda. 

 

は、「いまも彼女の名前がLindaである」ということをなんら主張していない。この文章が現在について意味するのは、 「彼女の名前はLindaであるとも、Lindaでないともわからない」ということだけである。

 

現在完了形は過去の出来事を一つの時点に閉じ込めることから解放して、現在に関与させることである。そのために、現在完了形では、「過去の出来事をひとつの特定の時点に限定してはならない」という制約が設定されている。

 

 × I have left NY yesterday. 

 

この制約の適用は具体的にはどこまで適用されんだろう?

 

I have left the office at five. 

 

ちょっとドッキリする例文だが、この文は、

 

私は 5 時に退社したことがある。

 

という意味であり「5時」は複数存在することが可能で、過去の時間を一つに特定しているわけではない。次の例も同じように解釈すればよい。

 

He has worked on Sunday. 

 

また、次の例も過去の時間を一つに特定したわけではない。 

 

I have gone back to visit two months ago, last weekend, and just yesterday. 

 

次の例は漠然とした時間の指定 (long ago) のため過去の時間を特定するまでには至っていないと見なされているからだろう。 こういう議論というのは、「個人情報保護法」でどこまでの個人情報の提供範囲なら個人の特定化が困難と見做されるかという現実問題と似たような話である。

 

I've given up that idea long ago.

 

次の例文も、現在が ”at this moment" として明示されていてギョッとする。

 

At this moment, my dog has delivered 5 puppies. 

 

この場合は、” at this moment” が前置され、この句が文全体を修飾していることにより、発話のタイミングを示しているだけで、”My dog has delivered 5 puppies." のタイミングを特定しているわけではない。

 

以上より過去の出来事が複数の時点でおきたり、その極限として継続しておきている場合は許されるということが分かった。

 

逆に制約に当てはまるのは、現在からみてかなり時間がたった遠くの過去の出来事がある程度の時間幅でおきている場合で、しばしばその時間幅は点とみなされてしまう。また、現在完了形の文に、出来事の時間を点と見なしてしまう at や when の使用は制約される場合がほとんどなのでこのことにも注意が必要だ。

 

次に現在完了形で過去の出来事と現在の関係を考察すると次の二つの場合があることが分かる。

 

完了: 現在において、過去に始まった出来事はすでに終了している。

継続: 現在において、過去に始まった出来事は終了しておらず続いている。 

 

一番単純な BE 動詞で、

 

「花子さんは特定されない過去のある時点に学生であった」

 

とする。これを現在完了形で表現すると、 

 

Hanako has been a student. 

 

となる。この文は、上記の「完了」になるのだろうか、「継続」になるのだろうか?

 

もし「継続」だとすると、「花子は過去のあるときに学生であり、いまでも学生である」ということになる。つまり現在を含む時間で一定・不変のことであれば、わざわざ現在完了形でいうというのは余程の変人であり、素直に

 

Hanako is a student. 

 

と現在形でいえばいいことになる。つまり教訓としては、以下のようになる。

 

より簡潔な現在形を使えばことたりるとき、わざわざ現在完了形を使うことは言語の経済原理に背く。 

 

以上より、 

 

Hanako has been a student. 

 

は「完了」である。つまり、「花子は過去のあるときに学生だったが、現時点では学生ではない」ということである。

 

 次の例文をみる。 

 

Hanako has been a student for three years. 

 

"for three years" が追加されたことにより「完了」「継続」双方の解釈が可能になっていることに気付く。「継続」は「3年前から今まで」とすればよく、特定の時間幅が新たな情報として加わっているためこの文を現在形に置き換えることはできなくなった。 

 

完了:彼女は過去のある3年間は学生だったが、今はそうではない。

継続:彼女は過去3年間学生で、今もそうだ。

 

両方の解釈のどちらであるかを決めるには文脈の検討が必要である。ただし、通常は「継続」として解釈されることが多い。もし、「完了」の解釈を完全に排除して、「継続」として内容を伝えたいのであれば、

 

 Hanako has been a student these three years.

 

とかいえば、現在を含む3年間であることが明確に示される。逆に「継続」の解釈を完全に排除して、「完了」として内容を伝えたいのであれば、単純に 

 

Hanako was a student for three years. 

 

ということが考えられるが、このときは過去のどの時間かを特定できる文脈が必要になる(過去形だから)。もし過去の時間も特定せずに「完了」の解釈を伝えたいのであれば、 

 

For three years, Hanako has been a student. 

 

のように、”for three years” を文の冒頭に独立させると、この期間をあらわす句は次の

 

 Hanako has been a student. 

 

という文全体にかかる。すると、”Hanako has been a student.” 単独で解釈されることから、

 

花子は過去は学生だったが、今は学生ではない

 

という意味が確定し、「現在を含んだ3年間」の「継続」とは容認されにくくなる。

 

もう一つ例を挙げる。

 

She has been dead. 

 

という文は異様に響く。というのは、今までの説明から

 

彼女は死んでいたが、今は生きている。

 

という「完了」として解釈されるからだ。このような状況は日常ではありえず、映画や小説としては面白い表現となるかもしれない。また、 

 

She has been dead for three years. 

 

という文の場合は、普通は「亡くなって3年になる」という「継続」として解釈されるだろう。この場合、日常的な常識から「継続」の用法であることが自然に解釈されるのだ。

 

同じように、 

 

The door has been open. 

 

は、ドアが今は閉まっている「完了」のときにしか使わない表現である。 

 

今までの例は、BE 動詞を使用した。一般動詞の場合は、その動詞の意味がもつ性質から「継続」「完了」のいずれであるかを解釈する必要がある。たとえば、以下のような例文をみてみる。 

 

The dog has bitten his master. 

 

この場合、「噛む」という出来事は過去のある時点からずっと続いているということは認めにくい。したがって、「完了」の解釈になる。 

 

He has passed his driving test.

 

 pass のもともとの意味が「越える」であることを考慮すれば、これは「完了」の用法 である。注意しないといけないのは、あたり前だが「合格した」という出来事が完了したとしても、「合格」という結果事実はその後もずっと残る。その自明すぎる「結果事実」を「継続用法」として考慮してはいけない。

 

もともとの動詞が継続的な動作を意味している live の場合はどうか?

 

She has lived here. 

 

この場合、「彼女が現在もここに住んでいる」と解釈するのであれば、 

 

She lives here. 

 

としても意味的に何もかわらない。したがって、「完了」の意味をもつ。

 

以上の例が示すように、期間を示す句がないときの基本的な解釈は「完了」にもとづいているといえるだろう。

 

それでは、期間を示す句を与えないで「継続」を表すには、どうすればよいか?現在完了形ではなく、現在完了進行形を使うことが必要になるだろう。進行形は、

1) ある出来事が一定時間内において変化している

2) そのまま継続している

3) 間欠的に繰り返されている

のいずれかをあらわす。したがって曖昧さを許さず、現在完了進行形は「継続」として解釈される。 

 

He has been eating cake.

(彼はケーキを食べ続けている) 

 

こんどは、現在完了形に副詞がつかわれている場合をみてみる。 

 

She has recently arrived. 

 

上の文は、「彼女は最近着いて今もここにいる」という「継続」の意味で普通は解釈される。なぜなら過去の出来事と現在の時間差が短いので、現在、どこか別の場所に行ったとは見做されにくいからだ。この場合、過去と現在はほぼ重なりあっていると解釈できる。なお、このことは副詞がなくても、出来事が最近起きたということが文脈から分かれば成立する。現在を瞬間として捉える ”just now" は現在完了においては使いにくいことも以上から了解されるだろう。 

 

次に、現在完了形では、ある過去の出来事が、それが過去に起きたという当然の結果事実を超えて文の主語の現在に具体的な影響として所有されている必要がある。この制約は、「継続」用法であるならば、過去の出来事が現在においてもまだ引き続いていることから自然に満たされる。ところが、「完了」用法では、過去の出来事の現在への具体的な影響がなにかを想定することが問題になる。たとえば

 

I have had lunch. 

 

という文は「完了」の意味だが、そもそも現在完了形が成立するためには、過去の「昼食を食べた」ことの具体的影響が現在の主語に残っていないといけない。たとえば、「現在の私はお腹いっぱい」とすると、過去に昼食をとった影響が主語にいまなお残っていると考えられる。このような具体的影響が想定できるとき、はじめて過去の出来事は現在完了形として表現できる。たとえば、「私は現在お腹が減っている」というのであれば、過去の昼食の影響はすでに現在の「私」にたいしてなくなっていると考えられる。したがって、

 

I had lunch. 

 

と、過去形でいうしかない。繰り返しになるが、たんに「過去に昼食をとった」という自明の事実ではない具体的な影響が主語に想定できるときはじめて現在完了形の使用が正当化される。実際的には、現在完了形の「完了」表現は、過去の出来事から想定される影響と矛盾する表現をしてはいけないということである。すでに

 

Hanako has been a student.

 

という例は「完了」であることは説明したが、「現在の花子は学生でない」という事実だけから、学生だった花子の過去が現在の花子に影響を与えていないと考えることはできない。たとえば花子の現在の職は、「花子が学生だった」という過去の事実が影響しているかもしれない。 

最後に、現在完了形の簡単な例文をいくつかあげておくことにする。

 

例文1. 若いときに、中国に行ったことがある。
※ 「若いときに」ということで過去を特定した。この文章は現在完了形は使用できない。

When I was young, I went to China.

 

 例文2. 脚を折ったが、すっかり治った。
※ 現在完了形が使えるかどうかは微妙である。もし、その傷跡などの影響が残っていれば使える。逆に、跡形もなく直ったという意味だとすれば、骨折の影響は残っていないと考えられるので過去形で表現するしかない。ここでは、後者をとる。

 I broke my leg, but it healed up. 

 

例文3. 脚を折ったので、休日にはでかけられない。


※「休日にはでかけられない」は、脚を折ったという事実の影響と考えられる。したがって現在完了が使用できる。 

I can't go out on holiday because I have broken my leg. 

 

例文4. 何週間も映画を見なかったので、この週末はみたい。
※ 継続用法の現在完了形である。

I haven't seen a film for weeks. I want to see one this weekend. 

 

例文5. この赤ちゃんはまだおしめをしている。まだトイレのしつけがされていない。


※ 「しつけがされていなかったこと」は、おしめを現在もしていることに影響を与えている。したがって現在完了が使用可能。 

This baby still wears diapers. It has not been toilet-trained yet. 

 

例文6. パソコンが最近ひろくいきわたるようになりました。
※ 直近の過去に普及がはじまり、それが今もその状態であるという「継続」用法。 

Personal computers have become popular recently.

 

 例文7. 今年はたくさん友達ができた。
※ この文章から、いまは新しい友達はできなくなったという想定はしにくい。「継続」用法。 

I have made new friends this year.

 

 例文8. 彼は家にさっき帰ったが、また出かけました。
 ※ 直近の過去に帰ってきたのにまた出かけたのだから現在完了にはならない。一方「出かけ」て今もいないのだから現在完了の「継続用法」になる。 

He came home just now, but has gone out again. 

 

例文9. あなたは今日が私の誕生日であることを忘れている。
※ 継続用法である。

You have forgotten that today is my birthday.

 

In a Mist

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アルバム “Legrand Jazz” の収録曲である “In a Mist” は、28 歳で亡くなった白人コルネット奏者として知られている Bix Beiderbecke の作曲によるもので、ピアノも弾く彼が当時 24 歳の 1927 年にソロ演奏で録音したレコードが残されている。この曲は、同じ 1927 年のBeiderbecke による不朽の名演奏として知られている “Singin' the Blues”, “I'm Coming, Virginia” の 2 曲とともに特に有名なもので、しばしばクラッシック音楽の印象主義の影響が指摘される。

 

※ 以下のリストで 盟友であった Frankie Trumbauer の 1934 年の録音が見当たらないのが大変残念である。

 

1927:

Bix Beiderbecke:

1933:

Red Norvo Quartet:

1935:

Manuel Salsamendi:

1936:

Wind Quintet:

1938:

Bunny Berigan:

1941:

Alix Combelle:

1947:

Mel Henke:

1949:

Jimmy McPartland:

※ 1978 年から 2011 年まで NPR (National Public Radio) の プログラム “Marian McPartland’s Piano Jazz” のホストを務められ、2013 年に 95 歳でお亡くなりになられたピアノの Marian McPartland の名前がレコードのレーベルには Marian Page と記載されている。1945 年にトランペット演奏の Jimmy McPartland と結婚した後も彼女はしばらくこのステージ・ネーム “Marian Page” を使用していた。しかし、この 1949 年を最後に 1950 年には、ステージ・ネームとしても Marian McPartland を使用するようになる。//

Harry James:

1950:

Jess Stacy:

1961:

Johnny Guarnieri:

1968:

Armand Hug:

1974:

Marian McPartland:

 

Don’t Get Around Much Any More

Legrand Jazz にあったこの曲は、もちろん Duke Ellington の代表曲であり、もともとは 1940 年の “Never No Lament” が原題であった。この原題は The Blanton-Webster Band と称され、エリントン楽団がもっとも充実していたとされる 40 年代の演奏を集めたアルバムのタイトルにもなっている。Nat King Cole が歌っているが、90 年代には娘の Natalie Cole も歌っていた。なお、曲のタイトルは日記とかでよく使われる主語の “I” を省略しているもので「最近はもうあまり出歩かないの」ぐらいの意味となり命令形とは受けとれない。the ink spots の曲を聞けば、独りでソリティアなんかしている女性の心境が途中から主語を省略して歌われていることがわかるだろう。なお、Mose Allison の場合のように主語を省略しないで歌っているものもある。

 

1940:

Duke Ellington:

1943:

Ink Spots:

Glen Gray and the Casa Loma Orchestra:

1953:

Patti Page:

1954:

Harry James, Buddy Rich:

1956:

Ella Fitzgerald:

1957:

Tab Hunter:

Eydie Gormé:

Nat King Cole:

1958:

Mose Allison:

Earl Holliman:

1959:

June Christy:

Ed Townsend:

1960:

Coasters:

1961:

Duke Ellington & Louis Armstrong:

Mel Tormé:

Sam Cooke:

Etta James:

 

 

 

 

英語の勘所 (6)

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ここでは、動詞(主要動詞)の後の目的語としてing-動名詞、 to-不定詞 (まとめて「補語」と呼ぶ) のどちらをとるかという、高校受験勉強 (megafeps!) 以来の古い問題をごく簡潔に考察してみることにする。もちろん、この考察は個人的な仮説でありいつでも成立する正しさを主張するものではない。


結論から書けば、to-不定詞をとる場合は以下の場合であり、それ以外は ing-動名詞をとる。

 

to-不定詞をとる場合:

主要動詞の存在が、主語と補語で示される状態の間に全的関与を生じさせ、補語が示す状態に出来事 (確定的、個別的な質的変化)が具現化するとみなされる。

 

以上だが、何が言いたいのかは例文で確認することにする。


He tried to open the door.

⇒ try の存在が、「彼」と「ドアの状態」に関与を生じさせ、「ドアの状態」が閉まった状態から開いた状態へ至る確定的、個別的な事象の全過程を主語が支配するべきものと見なされており、したがって to-不定詞をとる。


Try adding some more sugar to the cake.

⇒ この文章は、「試しにケーキにもっと砂糖を加えてみたら」という意味である。ここで問題なのは、try の持つ「試行的」意味が強調されていることで、どんな結果を確定させるかはわからない。

 

I'm willing to risk losing everything.
⇒ risk が「危険を冒す」という動詞で用いられており、この動詞は 私と「すべてを失うこと」に深い関与を導入しているものの、その変化は確率的であり確定的な変化として生起するとみなされていない。

 

You need to practice parking the car in the garage.
⇒ practice は試行的な複数の成功、失敗を問わない試みを意味する動詞であり、parking に対する個別的な事象を引き起こすとはみなされない。


I advised starting early.
⇒ "starting early" するのは、「私」ではないのだから、事象の具体化への全過程に関与しているとはいえない。


They prohibited picking flowers in the park.
⇒ 上と同じ


She does not allow smoking in the room.
⇒ 上と同じ

 

I suggested his resting for a while.
⇒ 上と同じ

※ suggest は「控えめ」なので主語を明示してすら例文のような形しかとらない。

 

I cannot imagine marrying Tom.
⇒ imagine は確かにわたしにある想念を導入するが、それは確定的に具体化されうるとみなされる事象とは言えない。

 

He acknowledged having broken the law.
⇒ "having broken the law"はすでに過ぎ去った確定的事象で、acknowledge がその事象に He を関与させてもその状態に質的変化が生じるはずもない。

 

I shall never forget hearing the President's address.
⇒ 上と同じ


I can't help eating everything she serves.
⇒ eating everything という事象が生起するとみなされるのは、「私」の全的関与によるものではなく、そもそも彼女が出す料理がおいしいことに端を発している。


J.P. Saltre refused to accept the novel prize.
⇒ refuse という動詞が、サルトルノーベル賞を受けることに全的関与をもたらし、賞を受ける前提そのものを恒久的に消滅させることで確定的な状態変化を生じさせている。

 

He failed to stop his car after causing a traffic accident.
⇒ fail とは前提とされている期待が本人の全的関与によって背かれることである。

 

I ended up getting a cold today.

⇒ 想定した状態に主語が落ち着くべくして落ち着いたという感じで関与感が薄い。

 

I missed seeing the film.
⇒ miss の場合は、主語との関与ではなく、むしろ外部的、偶然的な外部要因の関与によって「見逃した」のである。

 

The moment you doubt whether you can fly, you cease forever to be able to do it.
⇒ cease というのは to 不定詞が使えるので、恒久的に放棄するというような決定的な事態を表現できる。ここでは forever という語があるが、たとえこれがなくても to 不定詞が使われることで「二度とできなくなる」という決定的な事態が生じるニュアンスは伝わると考えられる。飛ぶことを doubt するという否定的な疑いは、「二度と飛べなくなる」という確定的、個別的な変化への端緒になっている。

※ 参考までに上の例文は、最初に Peter Pan というキャラクターが登場した J. M. Barrie の作品 “The Little White Bird or Adventures in Kensington Gardens” (1902) の “Peter Pan” と題された第 14 章にある。なお、1906 年に出版され、Arthur Rackham の挿絵で名高い “Peter Pan in Kensington Gardens” にも同じ文章がある。//


The bank strongly resisted cutting interest rates.
⇒ cutting interest rates という事象は、外部事象と考えられ、the bank が抵抗によって関与したところで、その事象自体が変化するわけではない。

 

A lazy person delays starting a job.
⇒ delay によって、時間的差異は生じるかもしれないが、starting a job という事象の前提自体には本質的変化は生じない。

 

We have to postpone going to France.
⇒ 上と同じ。

 

The government should promote using the alternative energy.
⇒ 上と同じ

 

I finished doing my homework.

⇒ doing homework という事象生成への全過程での関与ではなくそのうちの特定の局面における関与に触れているだけである。

 

Let's avoid wasting time.
⇒ avoid は、主語の側が wasting time という状態から遠ざかる escape の類の動詞であり、ということは wasting time は一定の前提として変化せず存在していると見做されている。つまり主語が補語に深い関与をして質的変化を具現化するということではない。

 

The boys pretended to be Indians.
⇒ 偽装によりインディアンの具体化に少年たちが全的に関与している。

 

 

※ Nice to meet you. とか I’m glad to hear that. の to は向き合っているという意味しかない。to が未来志向というならそれは主要動詞の関与があるからだろう。大まかにいうと、to 不定詞とing 動名詞の選択の違いは具体的、本質的な出来事をもたらすことに重きをおくか、通時的に保持されていると見做されている事象に対するある局面での (主要動詞によって示される) 行為に重きをおくかという視点の違いが対応していると思う。しかし、例文をみるとわかるようにto 不定詞の適用はかなり厳格で、ing 動名詞は逆に適用の幅が広いように感じる。

 

 

Legrand Jazz

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ミシェル・ルグランがハネ・ムーン も兼ねてニューヨークに滞在したときの1958 年のアルバム “Legrand Jazz” から。スタンダードをアレンジする力は Gil Evans に比肩する才能である。ところでさらに迂闊なことに山田宏一さんと濱田高志さんが共著で『シネマ・アンシャンテ』というジャック・ドゥミーとミシェル・ルグランの本を昨年出されていたことも知らなかった。モーリス・ジョベールもそうだけどミシェル・ルグランを忘れては駄目だなあ。

 

The Jittebug Waltz:

Miles Davis (tr), John Coltrane (ts), Phil Woods (as), Jerome Richardson (bs, bcl), Bill Evans (p), Paul Chambers (b), Barry Galbraith (g), Kenny Dennis (d), Betty Glamann(hrp), Herbie Mann (fl), Eddie Costa (vib)//

Nuages:

※ Ben Webster (ts), Billy Byers, Eddie Bert, Frank Rehak , Jimmy Cleveland (tb), Hank Jones (p), Major Holley (b), George Duvivier(db),Don Lamond (d), Herbie Mann(fl)//

A Night in Tunisia:

※  Art Farmer, Donald Byrd, Ernie Royal, Joe Wilder (tr), Frank Rehak, Jimmy Cleveland (tb), Seldon Powell (ts), Gene Quill, Phil Woods (as), Teo Macero (bs), Milt Hinton (b), Osie Johnson (d), James Buffington (hrn), Nat Pierce (p), Don Elliot(vib)//

Blue and Sentimental:

※ Ben Webster (ts), Billy Byers, Eddie Bert, Frank Rehak , Jimmy Cleveland (tb), Hank Jones (p), Major Holley(b), George Duvivier(db), Don Lamond (d), Herbie Mann(fl)//

Stimpin’ at the Savoy:

※  Art Farmer, Donald Byrd, Ernie Royal, Joe Wilder (tr), Frank Rehak, Jimmy Cleveland (tb), Seldon Powell (ts), Gene Quill, Phil Woods (as), Teo Macero (bs), Milt Hinton (b), Osie Johnson (d), James Buffington (hrn), Nat Pierce (p), Don Elliot(vib)//

Django:

※  Miles Davis (tr), John Coltrane (ts), Phil Woods (as), Jerome Richardson (bs, bcl), Bill Evans (p), Paul Chambers (b), Barry Galbraith (g), Kenny Dennis (d), Betty Glamann(hrp), Herbie Mann (fl), Eddie Costa (vib)//

Wild Man Blues:

Miles Davis (tr), John Coltrane (ts), Phil Woods (as), Jerome Richardson (bs, bcl), Bill Evans (p), Paul Chambers (b), Barry Galbraith (g), Kenny Dennis (d), Betty Glamann(hrp), Herbie Mann (fl), Eddie Costa (vib)//

Rosetta:

※ Ben Webster (ts), Billy Byers, Eddie Bert, Frank Rehak , Jimmy Cleveland (tb), Hank Jones (p), George Duvivier(db), Major Holley(b), Don Lamond (d), Herbie Mann(fl)//

‘Round Midnight:

※ Miles Davis (tr), John Coltrane (ts), Phil Woods (as), Jerome Richardson (bs, bcl), Bill Evans (p), Paul Chambers (b), Barry Galbraith (g), Kenny Dennis (d), Betty Glamann(hrp), Herbie Mann (fl), Eddie Costa (vib)//

Don’t Get Around Much Anymore:

※ Ben Webster (ts), Billy Byers, Eddie Bert, Frank Rehak , Jimmy Cleveland (tb), Hank Jones (p), Major Holley(b), George Duvivier(db), Don Lamond (d), Herbie Mann (fl)//

In a Mist:

※  Art Farmer, Donald Byrd, Ernie Royal, Joe Wilder (tr), Frank Rehak, Jimmy Cleveland (tb), Seldon Powell (ts), Gene Quill, Phil Woods (as), Teo Macero (bs), Milt Hinton (b), Osie Johnson (d), James Buffington (hrn), Nat Pierce (p), Don Elliot(vib)//

 

ここまでがもともとの収録曲。CD には Richard Rodgers の曲を1962年に演奏した以下の3曲も追加されていた。

 

Have you Met Miss Jones:

This Can’t Be Love:

The Lady Is a Tramp:

 

※ 上記三曲の演奏: Clark Terry, Ernie Royal, Al Derisi, Snooky Young (tr), Urbie Green, Bob Brookmeyer, Bill Elton, Willie Dennis, John Rains, Dick Lieb, Wayne Andre, Thomas Mitchell (tb), Don Butterfield, Harvey Phillips (b), Richard Berg, George Berg, Al Howard, Harold Feldman, Anthony Castell ano, Don Hammond (db), Rick Henderson, Jerry Dodgion, Phil Woods, Walter Levinsky (as, cl, fl), Paul Gonsalves, Al Klink (ts), Danny Banks, Sol Schlinger (bs), Ray Alonge, Bob Northern, Julius Watkins, Earl Chapin (hrn), Tommy Flanagan, Lou Stein, Hank Jones (p), Gary Burton (vib), Milt Hinton (db), Sol Gubin (d), Billy Costa, Warren Smith (prcssn)//

 

 

 

見える化(2)

前回の記事で触れたことは、よく言われるような長期的な視点での資源配分がなされず短期的な視点ばかりが強調されることにも確かに通じてはいると思うのだが、こういった現状批判を具体性を欠く理念的なもので行なっても意味はあまりないと思う。

 

過去の事象にしろ、遠くにある事象にしろ、それがあくまで具体的な細部となって顕在化し「いまここ」と同資格で不意に戯れ始めることではじめてなにか新しいことが起きるのであって、批判すべきなのは「いまここ」の特定の細部を特権的に強調することは、悪しき具体性であって結局は「わかりやすさ」による抽象性にもとづいているということであろう。

 

それは、1984年にすでに蓮實重彦が言っていることである。そこでは、風俗現象としての「性」の領域における「見える化」である性器の特権化が語られている。当時、素人が大量進出し「ビニ本」「裏ビデオ」等を通じて性器の「見える化」が進行したことは記憶に新しいが、それを蓮實は徹底さを欠いた「悪しき表層化」と呼んでいる。長くなるが蓮實の文章の中で最高のもののひとつと思っている部分を引用しておく。この部分はかなり本気で書いていると今でもときどき思うのだ。なお今回この文章を久しぶりに読んで「塵埃」の語が登場しているのに気がついた。だから「塵埃と頭髪」のフローベールの文章も思い出して読むといいかもしれない。比喩が適切かどうかはさておき、イノベーションの新しい定義は下の引用にあるように「性器をあからさまに行使することのない性交」のことかもしれない。また「表層」とは物質世界でいえば相変化が起きる臨界的な状態の界面のようなものだということもわかる。

 

すでに述べたように「性」体験は性器の体験ではない。それは性交ですらない。差異となるためには、素肌を露呈させる必要もなければ性器をまさぐる必要もない。おそらく、からだを接し合うにも及ばないだろう。だからといって、ほどよい距離を介して対象を識別すべく精一杯瞳を目覚めさせることが求められるのでもない。離れていようが衣装をまとっていようが、目をつむっていようが、熟視していようが、存在をいっせいにおし拡げることで同一性の鎖を解き放ち、差異の識別を放棄しながら断片化しつつ、主体を塵埃のように頼りなく拡散させてでも他を欲望し、その欲望の伝播によって他者にも同じ断片化と拡散の運動を誘発することで距離なしに接しあうことなのだ。とはいえ、何も抽象的な議論を展開しようというわけではない。「惹かれあう」という経験を持っているものなら性器をあからさまに行使することのない性交ともいうべきこうした事態に身をまかせることの快感を知らぬはずはあるまい。そして真の表層化とは、この断片化と拡散に適した状態の到来にほかならない。それは、予測や計算を超えて、唐突に「機が熟す」ことだといってもよい。そうした瞬間に立ち会いながら、いまだに「性」現象を性器の体験だと信じこんで相手の衣装を脱がせ、むりやりその性器をまさぐらずにはいられない精神というものは、可能な限り反=表層的で不幸な精神だというべきだろう。今日の先端的な風俗として演じられている「性」現象が批判されねばならぬのは、性器を特権的な商品として大量に流通させることでそうした不幸な反=表層的な精神をだらしなく蔓延させているからにほかならない。これが擬似表層化現象の弊害である。誤解を避ける意味でかきそえておくなら、性器の特権化を排することが、裸女の陰部に黒い汚点を印刷してみたり申し訳程度の薄いパンティをはかせることではないことはもちろんである。こうした操作は、かりに検閲という国家権力の介入に抗う戦略的な意図から出たものであろうと、特権化の維持にしか役立つまい。

 

「性器」を特権的に強調される様々な語に置き換えて読むことで「短期的な視点=欲望」ばかりが強調されることの弊害を教えてくれる文章だが、それにしても、じゃあなぜ『伯爵夫人』なのかという疑問は工藤庸子さんのように当然なされてよいと思うが、それについてはまた別の話であろう。